ブログを引越しします。

2010年11月29日

いつもアミブロにご訪問頂きまして、誠にありがとうございます。

このたび、古巣のココログへブログを出戻りすることにしました。

お手数ですが、RSSの設定など、再度見直しを宜しくお願いします。

→ 朝比奈のブログ、アミブロの移転先はこちらをクリックして下さい。

なお、引越しに伴い、このブログのコメント欄は閉鎖します。

※新移転先のブログには、コメント欄を設置しますので、宜しくお願いします。

不確実なものを、あえて追求する -東京対話会での気づき-

2010年9月21日

『この対話会には、最初から決まった目的がありません。
テーマも決まってません。


誰が講師で、誰が参加者で、という区別もありません。

この場にいる全員の方が貢献する場だと考えています』


今年から、対話に共感下さる方々と共に、こんな対話会を京都で始めた。
冒頭のメッセージは、その対話会の説明でよく使っているセリフだ。

先日、赤木が東京へ行くのに便乗して!?、親しい人たちに声をかけて、私とアッキーとで、東京で対話会をしてみた。




13:00から17:30までのロングランであったが、あっという間に時間が過ぎた。
秋の訪れにふさわしい、実りの多い対話の場となった。

まさに、私たちが目指していた -参加者全員が、気づきに貢献しあう場- が形成された。

↓ 参加者からの提案で、キーワードをホワイトボードに書いてもらった。
ホワイトボード

ホワイトボード1



具体的に何が話されたのかは、ここでは割愛するが(第一、言葉で明確に覚えているのも少ないし)、私にとって、印象に残ったキーワードが一つある。


不確実性 -
  人は不確実なものに不安を感じる。確実なものに変えたがる。


言葉に書いてみると、ありふれた印象を与える。

が、実際の対話の場では、生々しい実感が伴なう言葉なんだが・・・私の筆力では、その空気感が表現できず、残念。

ただ、自分と照らし合わせてみると・・・確実を求め、不確実を埋めるための行動は、いくらでもやってる。

その一方で、不確実を楽しめるゆとりも出てきた。

この対話会のコンセプト自体は、不確実なもので成り立っている。


 『えっ、テーマも目的もなしに、本当に対話って成り立つの?』

そんな風に問われることも多い。


セミナーやワークショップは、最初から「参加者が何を得られるか」が明確である。だからこそ、安心して受講することができる。

今流行りのワールドカフェなども、参加者同士の対話をベースにするとしても、必ずテーマが決まっていて、そのテーマに沿って対話する。

それに比べて、「この対話会に出て、何が得られるのかは、あなた次第」とある意味開き直られたら!?・・・不安に思うのも無理はないだろう。

少し補足すると、
 全く目的は無いとはいえ、対話会を開いている目的そのものはある。
 そして、対話のルールも冒頭でお話するので、100%不確実なものではない。

しかし、その日の対話の流れは、参加者に身を委ねているので、セミナーやワークショップに比べて、不確実性は格段と上がる。


私たちファインネットワールドは今まで、セミナーやワークショップを多数主催していた。そして、これからも続ける。

参加者が何が得られるのかが明確に用意されているセミナーの方が、参加者にとっても安心である。事業という面でも手堅いだろう。

それでも、私たちは徐々に、対話の方向へシフトしていくのは明らかである。

なぜなら・・・

 確実性が強ければ、得られるものも安定する。
 予定調和は安心を生む。

 だから私は、いつも決まった味が出てくるチェーン店のレストランに、
 その点で不安を感じることは全くない。

 しかし、しかしだ。
 予定調和では、その枠を超えたものが得られにくい。

この対話の会は、シェフがその日に仕入れた素材のみで調理していくようなものだ。


『何かモヤモヤしている、何か分かりたいことがあれば、お話下さい』

対話の場で、そんなメッセージを伝えることもある。

しかし、参加する前に、対話を通してハッキリさせたかった事が、明らかになるかどうかは分からない。
むしろ、モヤモヤを出してみると、それとは直接関係ない、予想だにしなかった気づきが得られることも多々あるのだ。

 『この対話会で何が得られたか・・・今は言葉で言えないんですが、
 心に種が植えられた気がします。


  それが何か、これからの日常生活で徐々に分かってくる気がします』

対話会参加者の感想は、このようなメッセージが多い。

私たちが関わる対話会は、決してその場で完結しない。To Be Continue なのだ。
そこで得た気づきの種が発芽がするのは、家庭や職場かもしれないし、別の対話の場かもしれない。

さらに言えば、発芽するかどうかさえ、不確実だ。

私にとって、それが面白い。ちょっと変わってるかもしれないが。
不確実だからこそ、未来のレンジが広がる、そう思っている。


「不確実性」というキーワードも、東京対話会に参加頂いた方々の中で創発したものだ。

思いがけず、対話会のコンセプトと結びついた。


こんなキーワード、自分ひとりでは思い描くこともないだろうし、私にとっての重要性にも気づかなかった。

ありがとう。


この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

赦しが世界を変える ~インビクタス

2010年9月6日

「Strongly recomend, Akemi!」

我がEnglish teacher、キースから一押しで薦められたこの作品。
以前から気になってたので早く観たかったが、ようやくDVDで観ることが出来た。

インビクタス
invictus

もーーーっ。

映画で、ここまで大泣きしたのは、久しぶり。

魂が震えるとは、こういうことか・・・


それほどまでに、マンデラ氏の高貴な精神に感銘した。

この映画で、マンデラ氏を演じたのは、常にイイ味を出し続ける名優のモーガン・フリーマン。マンデラ氏の滲み出るような誠実で大きな人柄を、実に演じきっていた。

本人の魂が乗り移ったかのごとく!

準主役のマット・デイモンも見事だった。


今回の映画で伝えたかったことは、マット・デイモン扮するピナールのセリフに多々代弁されている。

白人・黒人の壁を超えて、国民一つになる そんな願いが託されたラクビー・ワールドカップ決勝戦直前。

大きな窓から見える景色を見下ろしながら、ピナールはこうつぶやく。

『30年近くも独房に入れられて、どうして人を赦せる心を持てるのか』

これは、私の心に深く突き刺さった。


昔話題になった映画「遠い夜明け」でも描かれていたように、南アフリカ共和国で、黒人は長年、白人の下で虐げられていた。自由を奪われていた。

マンデラ氏自身も投獄され、27年にも渡って、収容所で過ごすハメになった。

気の長くなる年月・・・灰色に囲まれた狭い独房で自由を奪われ続けた末、ようやく釈放され、大統領にまで就任した。

今までの義憤を晴らすことが出来る立場にまで昇りつめたが・・・


それでも、彼は赦しの道を選んだのだ。

過去は過去。
この国にとって、今、何が必要なのか・・・

自我を超えて、自分が課せられた役割を、忠実に果たそうとしていた。


アパルトヘイト終結により、この国は否が応でも変わる。
今まで支配側に立っていた白人は、黒人たちの逆襲に怯えていたようだ。

しかし、それは黒人が解放されたことは同時に、白人が解放されたことも意味する。

隣りに住む人が抑圧されている社会は、抑圧している側(白人)にとっても、本当の意味で良い訳はない。

だから、支配-隷属のスイッチが切り替わっただけでは、誰も救われない。黒人にとっても・・・

マンデラ氏は、祖国が善い場所に変わるように・・・
赦しの心で、白人と黒人が手をとりあい、この国を一つにしたいと願ったのだ。


マンデラ氏の大きな赦しは、少しずつ周りに広がっていった。

まず、ピナール(マット・デイモン)を変えた。
マンデラ氏への感銘と共に、自分たちは今や、ラクビー選手以上の存在であると悟った。

そして、彼が率いるラクビーチームをも変えた。

invictus_2
今、このチームがワールドカップで優勝することは、「天命だ!」とピナールが叫んだ。
最後の力を振り絞って、皆が戦い抜く。


運命の女神が微笑んだ。

映画のラストで、肌の色の違いを超え、人間同士が繋がり始める姿を観たとき・・・
涙が止まらなかった。

赦しほど、人を変えていく魔法はない。


「I Have a Dream 」

マンデラ氏の願いは
昔、銃弾に倒れたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏が夢見てた思いに重なる。


これは南アフリカ共和国だけの話ではない。

今、ダイバーシティの重要性が問われているが、様々な立場や思想を理解しあい、つながりあっていく・・・

 それが、どれほど私たち人間の歓びにつながっていくのか・・・

  そして、この地球を善き場所へと導いてゆく・・・

それこそが、人間の・・・いや、人類が深い、深いところで望んでいることではなかろうか。

このことを、私はどこかで・・・深いところでは分かっている 分かっていたんだと
インビクタスを通して、私の心をノックした。


そして、
誰の心の中にも、マンデラが体現した「赦しの心」、その種が埋められていることも。

あぁ、ブログ書いているだけで、また涙腺が緩んできた・・・




最後に、マンデラ氏が長い獄中生活の間、心の糧にしていた、ウィリアム・アーネスト・ヘンリー氏の詩を紹介する。

私を覆う漆黒の闇
鉄格子にひそむ奈落の闇
私は あらゆる神に感謝する
我が魂が征服されぬことを

無惨な状況においてさえ
私は ひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ 血を流しても
決して屈服しない

激しい怒りと涙の彼方に
恐ろしい死が浮かび上がる
だが 長きにわたる 脅しを受けてなお
私は何ひとつ 恐れはしない

門が いかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者
私が魂の指揮官


この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

インセプションの番外な感想(ネタバレほぼなし)

2010年9月3日

観たよ。
あまりに友人たちが絶賛するもんだから。

inception
「マトリックスを超えた!」
「あんなに深い映画は観たことがない」

もう、皆が皆、手放しで賞賛してる。
が、アクションシーンが多いって聞いてたので、なかなか腰が上がらなかったんだけどね。




映画館に行くのも久しぶりかな。

大迫力のスクリーンに映し出されるのは、円熟味が増して来たディカプリオ。

ディカプリオ

ディカプリオ



目が離せない展開の果て、どちらとも取れるラストに、ため息が出た。

ひやぁ~、確かに深い。深いのは分かる。

が、その深みが、私にはどうも掴みきれてない感じがして仕方が無かった。
モヤモヤな、消化不良感が消えないまま、自宅に戻った。

ふと気がついて、私の友人のイズンがブログに書いてた、インセプションの考察 を読んでみた。

そうかぁ~ なるほどぉ~
非常に深い考察ぶりに恐れいった。

彼の思考場をお借りしたおかげで、モヤモヤの断片にあったものが統合された。
(この映画を観た人には、非常にオススメな考察です! こちらからどうぞ

なので今回は、本編そのもののではなく、本編以外で感じたことを書いてみる。




インセプション 感想 番外編


1.アクションシーン多すぎ。何とかならないか。

「マトリックス」もそうだけど、人間存在の根源的なことや深層心理を描くのに、なぜ、あんなにアクションシーンが必要なんだろうか・・・

確かにドンパチがあると、ストーリーとして、メリハリが出るのは理解できる。

が、アクション嫌いの私には、苦痛で仕方がない。

インセプションにしても、深層心理からの抵抗を、マシンガンで暗に表現しているは分かる。が、何もあんなに激しく、銃撃しなくてもいいんじゃないか。

ボール投げじゃあダメなのか・・・(迫力に欠けるか(笑))

そうだ、この映画は潜在意識が大きなテーマだ。

で、ただでさえ観る人の潜在意識が開きやすくなってる中で、戦闘シーンが繰り返されるのって・・・
悪影響を及ぼしそうな気がするんだけど・・・そんなこと考えるの、私だけかなぁ。

そうそう、もう一つ。

映画は、最高のプロバガンダという話を聞いたことがある。

その国家の文化や価値観を刷り込む(まさにインセプションね)のに、映画は最高の洗脳マシンだと。

ハリウッド映画はまさにそう!という専門家もいるようだ。

ハリウッド映画は、やたらめったら派手な銃撃戦のシーンが多用される・・・それって何か裏の意図があるんだろうか?と、変に勘ぐってしまう。

プロバガンダかどうかは別として、巨大スクリーンに大音量、そこで得る強烈な感覚って、潜在意識には影響するよね。ちゃっかりと、映画を観た翌日の夢に、インセプションが登場した(笑)

あと観終わった後、無性にお肉が食べたくて仕方がなくなったのは、ただの偶然?(関係ないか)


2 KEN WATANABE is VERY EXCELLENT!

謙さん

謙さん


言わずも知れた日本の名俳優、渡辺謙が準主役として出演している。

まぁ、その存在感がとてもエクセレント。

以前から、ハリウッド映画に日本人俳優が出演することはたびたびあった。

が、それ自体が栄えあることでありすぎたか、いかにも「日本から来た、選ばれし俳優」という雰囲気を醸し出す俳優が多かった。

が、この映画の渡辺謙は違う。

ハリウッドの一俳優として、堂々たる風格がある。場に馴染んでいるというか。

あのスターオーラあふれるディカプリオと対峙しても、全然引けを取らない。

本当に、世界が誇る俳優になったんだなぁ~と感慨深かった。
いつかは日本人初でオスカー獲得するかも。





スクリーンに釘つけになりながら、頭の端っこでこんなこと考えていた私である。

あぁ、今度はDVDでゆっくり鑑賞しようっと!

この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

嫌煙原理主義者にはなれない理由

2010年8月26日

私はこれまで、煙草とはほぼ無縁の人生を送っていた。
若気の至りで、ほんの1~2本、試してみたくらいはある。が、全く習慣にならないまま、時は過ぎた。

年々、世間では「禁煙!禁煙!」と喧伝されるようになった。堂々と喫煙できる場所も減り続け、喫煙者にとっては肩身が狭くなってきているのではなかろうか。

私個人の見解としては、煙草はそれぞれの好き勝手でしょ?という、リベラルな姿勢を取っている。

・・・つもりだった。


が、よくよく思い当たると、私も「嫌煙家」になりつつあるかもしれない。

いや、喫煙者の自由も理解したいところだが、そうならざる得ないのだ。今となっては。

あぁ、うめぇ~

あぁ、うめぇ~



かつて煙草は、私の身の回りに存在していた。
実家では、父と兄が煙草を嗜んでいたので、煙がある風景は普通だった。

20年以上前、成人男性の殆どは煙草を吸ってたんじゃなかろうか・・・と思えるほど、喫煙風景は街中に溶け込んでいた。

私が就職した頃(バブル後期ね)は、職場は分煙なんぞ無く、皆が好き勝手に、席で煙草を吸っていた。

飲み会でも当たり前。だから、煙草の煙、匂いには耐性があったというか、さほど気にならなかった。

・・・が、時代が21世紀に近づくにつれ、急速に分煙化が進んでいった。

私が退職する頃には、職場では喫煙ブースが設けられ、席で吸うことは許されなくなった。

そうこうしているうちに、私の周りには、喫煙者がめっきり減った。若い頃は嗜んでいた友人も、いつの間にか辞めている。

現在、私の親族(私の実家、夫の家族)で、煙草をすう人は、もはや誰もいなくなった。おかげで、娘は煙草の存在すら知らない。

また、コーチの友人が多く混ざる、私の交流関係の中では、これまた何故か、煙草を吸う人が少ない。10人中1~2人くらい? もっと少ないかなぁ・・・


煙草の煙をかぐ機会がめっきり減った。
そのせいで、耐性がどうやら無くなってきたみたい。

かつては全く平気だった匂いや煙に、敏感に反応するようになってしまった。。

タクシーに乗車しても、前の乗客が残した匂いにむせてしまう。
ホテルマンに丁寧に接客頂いても、彼の服から匂いが立ち込めるだけで、「あぁ・・・」とゲンナリしてしまう。

喫茶店で、斜め後ろにいるお客さんの副流煙がこちらに流れたとき、思わず「キッ!」と振り返ってしまう。

その形相は・・・

恐らく、嫌煙家そのものであろう。


「あのね、嫌煙家が向ける、喫煙者への視線って、本当に怖いんですよーーー」
かつて、単発でコーチングをした方が、しみじみ言っていたのを思い出す。
(そのかたは、すでに禁煙に成功したんだけど)

確かに、寒いのに外に出て、背中を丸めて喫煙している姿をみると、ちょっと気の毒に思える。

現に、私の周りの数少ない喫煙者はとてもマナーが良い。灰皿持参は当たり前で、同席しても吸わない人を配慮し、ちゃんと席を外して喫煙している。

彼らをみてると、そこまで嫌煙だ!と躍起にならんでもいいかな~とも思えてくる。


そこで、冷静に考えてみた。煙草がなぜ、ここまで嫌われるようになったのか?

煙草の存在自体がイヤという訳ではない。
恐らく、吸わない人にとって苦痛なのは、その「煙」だけである。
慣れてない人間にとっては、あの匂いが、本当に辛いのだ。

個人で楽しんでいる喫煙行為を邪魔したくはないが、そこは勘弁してほしい・・・
うーん、ジレンマ。

煙が出ない煙草って、かつて発売された記憶はあるが、普及している様子はない。
やはり吐き出すことで落ち着くんだろうね。


まぁ、今は健康ブームと相まって、たまたま喫煙が目の敵となっている。
、私は今後、標的は変わっていくだろうとみている。

もし、煙草増税で大幅値上げになった結果、喫煙者が壊滅的に減ったとしよう。

この流れで行くと、次に狙われるのは・・・

飲酒のような気がするぞ!

かんばーい!

かんばーい!



煙草が他人に与える害といっても、副流煙や火の不始末くらい。
が、飲酒の方が実は、やっかいな騒動を巻き起こしている。

酔っ払って絡むのも困りものだが(私、たまに赤木にしてるかな)、大きいところでは、急性アルコール中毒で救急車出動だったり、飲酒運転による事故だったり。

最近、日本人の飲酒量が減っている。この流れでいくと、喫煙と同じく、飲酒も槍玉に上がるのではなかろうか。

うーん、それは困る。

だって、私は目下、減酒中ではあるが、相変わらずお酒は好き。
そういう意味では、立派な利権者だ。

きゃっ~
「酒飲みは、自分をコントロールできてない証拠だ」とか言われるようになったら・・・

いやだなぁ~。

うーむ・・・

嫌煙原理主義者には、なれないなぁ。
同じスネに傷を持つもの同士としてね(笑)

この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

抑圧した思いの行方 ~NRTを受講して

2010年8月17日

先週末、山崎啓支さんのセミナー「NRT」ステージⅠを受講した。

いつもは山崎さんのセミナーを主宰する立場であったので、全くのいち受講生として学んだのは、5年ぶり。何だか感慨深いなぁ。

とはいえ、あまり何も考えず、ほのかな期待をスパイスにしながら、ステージⅠに挑んだ。

NRTは、山崎さんが長年開発して、ようやく昨年からリリースを始めた新プログラムである。

そこでの学びはシンプルで、かつ、深淵なもの。

が、どんな内容で、どう素晴らしいのか、言葉で伝えようとすると、肝心なところが抜け落ちてしまう。

なので、興味を持った方はNRTのサイトを見るなり、説明会に足を運んで頂くといいかと思う。
ここでは、私の受講体験を通して得た、個人的な学び・気づきについてお話する。

その前に少しだけ、あくまでも、私のフィルターを通して、NRTで学んだことについて説明してみよう。


本来の自分に戻るのがその目的だが、本来の自分で生きることを妨げるものに誤魔化されながら、私たちは生きている。

何が、私たちの目を曇らせているか?

「~あらねばならない」「◯◯である自分」「~ではダメだ」
過去からの記憶によって創り出された考えや価値観が、私たちを惑わせている。


驚くべきことは、自分を縛りつけている価値観だけでなく、心地良い、世間的にも良いとされている価値観も全て、目を曇らせる要素となるのだ。

全ての価値観や思考から離れて、瞬間瞬間に立ち上ってくる 生の自分を思い出し、戻ることによって、どこにも負荷がない豊かな自分になれる。

こう書くと、悟りに近い状態をイメージする方もおられるかもしれないが、それとは違う。

この世のどこにもない、二度と再生も出来ない。
悠久のときが流れゆく中の、その刹那に生成された自分を体験する・・・



あえて言葉にすると、そんな感覚だろうか。

うーん・・・文字にはするのは難しいねぇ。




では、現実に何が起こって、何に気づいたかをお伝えする。
ステージⅠの最終日に、私は山崎さんから、ワークを受けた。

私はときどき、駄々をこねる娘に対して、どうしようもなく怒りを感じることがある。
それはもちろん、私の中の抑止する力(手を出してはいけない、という思考)が働いて、手を出すというところには至らないが、時々、背筋が凍ることさえある。

この気持ちは何だろう・・・どこから来るのだろうか。

「良い母親であらねばならない」「子供をしつけなければならない」といった、無数の価値観が、私の中に蠢いているのは感じていたが、それだけでは納得できないものがあったのだ。

NRTの受講が進む中で、ふっと思い出したことがあったのだ。

以前、ブログでも書いたことがあるが、私は娘の出産後、ひどく精神的に落ち込んだことがあった

「子供を産むんじゃなかった・・・」

それは、ホルモンの変化による産後うつだったと、レッテル貼って、終わらせたつもりであった。

しかし、それは間違いだった。
ただのマヤカシであり、単に、抑圧しただけであった。

それが娘に対して、イライラを募らせる大きな親玉でもあった。


それをワークのテーマにはしたが、具体的内容は何一つ語ることのないまま、ワークが進んでいく。

私の様子を注意深くみながら、山崎さんがゆっくりと誘導していく

 「もっと深く感じて」「もっともっと強く感じて」

怖かったけど、あの時の状態を思い出し、深めていった。

子供を産んだ・・・その事実を現実として迫ってきたとき。あの瞬間。

喜びどころか、怖くて仕方がなくなった。


 重たかったのだ。

 一人の人間の命を 突然託され
 自分の存在がどうしようもなく その人の人生に影響を与えてしまうこと
 その重さに


 耐えられなくなったのだ。



今までは、自分のことだけを考えれば、それで良かった。
そんなお気軽な人生、もう時計の針は戻らない。

これから人生をかけて、子供を立派に、一人前に育てていかなければならない。
天から任された任務から、逃げ出したくなったのだ。

こんなことを思ってしまう自分に怖くなり、産後で、精神的にもそれ以上の負荷は、耐えられなかったので、それ以上感じることをとめてしまったのだが。

それは消えて無くなったのではなかった。
娘に対する言いようもないイライラは、強烈に抑圧した思いが、時々顔を出した結果だった。

山崎さんのエネルギーに包まれながら、あの時、中途半端で引き返した思いを、もう一度さらに深めていった。


 本当の本当に、怖かった。
 逃げ出したかった。


 誰かに助けてほしかった。

 震えがますます止まらなくなった。
 あふれる涙を止める術もない。



震えが絶頂にきたときだろうか・・・突然、光がみえた。

「あれ・・・」

怖い感覚が、ほんとうに突然、終焉を迎えた。
静かな心地が広がっていった。

そして、何も思考が戻ってこない。

あの震えはどこへ行ってしまったのか。


あんなに抵抗していた「恐れ」ととことん向き合い、感じきってしまったら、いつの間にか
素っ気ないほど何もなくなってしまった。

静かな豊かさが広がっていく。これが山崎さんがいう「本来の自分」なのだろうか。
分からないけど、私にとってはそうだと思う。


ステージが上がってしまったとか、一段高い境地に立ったとか、そんな感覚では全くない。むしろ、懐かしい感覚であり、いつも隣にいたような、なじみのあるもののよう。


あのとき、私を引き止めたもの。それは

「子育てが怖い、イヤだと思う、そんな母親」に自分がなることを、私はどうしても許せなかったのだ。

その価値観が、私を抑えこんでしまった。
そんな思いを野放しにしてしまうと、ソレに呑み込まれるんじゃないかと、心のどこかで恐れていたのだ。


しかし、目を背けたかった価値観・思いを、全て解放してみると

全くどうってことなかった。

「子育てがイヤ」「逃げ出したくなる」
そんな思いに乗っ取られることなんて、恐れからくる幻想に過ぎなかった。

「子供を愛せない母親」だけでなく、「子供をこの上なく愛する母親」も含めてだけど、それらは所詮、本来の私ではない。

どちらの価値観とも、自分を引き離してみると、ほの暖かく、いつまでも途切れない愛情が綿々と湧いてくる。
本来の自分、自然に生成される自分は、思考にも、感情にも負荷がかからない。


それが、娘に対する、いや生きとし生けるもの全てに対する、ごく自然な愛情なんだと実感した。


そして、NRTが終わって2日経つ。

もちろん、いつも、いつもそんな自分でいられる訳ではない。
また、本来の自分はこう、と一端決めてしまうと、単なるイメージが増えるだけ。

そこが、ちょっと難しいところなんだけど・・・

しかし、本来の自分を体験するのと、しないのとでは全然違う。
また慌ただしい日常生活の中で、価値観に汚染されたまま右往左往をするんだろうが

帰る場所--故郷がすぐソコにある- それが分かるだけで、随分違う。


私はステージⅠしか受講していないけど、NRTは多くの人に体験してもらいたいなぁと純粋に心から願う、数少ないセミナーであった。

この記事についてつぶやいてみる。
クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

24歳の頃のトキメキを・・・今

2010年8月10日

こんなトキメキ・・・24歳の時以来だわっ。
どんな風に映っているの、ワタシ・・・
鏡で確認する回数が増えた。

そう、まさに10数年ぶりである。
蓮舫さんみたいになったのだ、私・・・まぁ、よく言えば、だけど。

そう

ベリーショート

誰がみても一目で分かるくらいに 髪の毛を切ったのだ!!!


「おぉ、いいじゃん! 10歳は若返ったぞーー」 夫の反応に喜んだのも束の間

「ママーーー、おばさんみたい」 しきりに叫ぶ 娘
(娘いわく「トトロ」にも似ているらしいが)

うーーーむ。 しかし、概ね好評のようで、思い切った甲斐があった。


20代の頃は、ショートにしたり、ロングヘアにしたりと、いろんなアミーゴを楽しんでいた。が、30代に入ってからは、ほぼショートヘアに定着。

その理由は、お手入れがラクというのもあるが・・・

女性らしさの象徴でもある、ロングヘアが似合わないんだわ、悲しいことに。
髪質が固くて、量が多い。、どうしても重苦しくなるのよ。
第一、顔立ちとの相性がどうも悪い。

で、肩につかない程度のショートヘアで、長年こまめに調整続けていた。

「前回と同じくらいに」「前回より、ややすっきりめに」
美容師さんへの要望を、事前に考えておく手間をすっかり省いる。

まるでおっちゃんが「いつも通りに」と、散髪してもらうのと同じである。


このまま続くかと思ったが、つい最近、私を揺さぶる出来事が起きた。

「キレイさっぱりしてくるわ~」と、軽やかに散髪に出かけた夫。
1時間も立たないうちに、宣言どおり? すっきりさっぱり坊さん頭で帰ってきたのだ!

やられた・・・なぜか、そんな言葉が体を駆け抜けた。

それから、私の脳裏に、「ベリーショートにしたアミーゴ」の姿がチラチラ浮かぶようになった。

実は24歳の頃に一度、ベリーショートにしたことはある。周囲を驚かせたが、かなり好評だったので、伝え方に失敗しなければ、そんな変なことにはならんだろう・・・とは見込んでた。

(余談だが、職場では「失恋したらしい」という勝手な噂もあったらしい。
今でも「髪の毛バッサリ切る=失恋」の図式ってあるのかな??)

が、そう思い立ったものの、すぐには腰が上がらない。変化をためらってしまう。
これも年齢を重ねたせいだろうか・・・分からないが

サイトの写真も、私の似顔絵イラストもショートヘアのままだしなぁ~
このままでもいいかな~

面倒だしなぁーーー


怠惰な方向に流れそうな一方で

胸にむずむずするものを感じる。


今年の末にかけて、仕事面、つまり私どもの事業が大きな変革の時期に来ている。
方向性を変えていくときが来たのを、ヒシヒシと感じている。

自分に変化をもたらすことで、新しいファインネットワールドへの先鞭を切れたらなぁ~

そんな期待がよぎった。


グズグズ迷ってても仕方がない、美容院に電話予約した。

翌日、美容師が容赦なくハサミを入れていく姿を、鏡からおそるおそる眺めた。

「あぁ・・うまく行くかなぁ。いやーーん、どうしよう」

どこかで覚えがある感覚・・・そう、24歳のワタシがアリアリと蘇ってきたのだ。

当時は独身で、見た目重視の年代真っ只中。
髪型を失敗することは、当時は致命傷のように感じてた。

だって、服装は変えられるが、髪型は失敗すると、しばらくはリカバリーできない。
あの当時、未知の髪型に挑戦するときは、決死の覚悟だった。
美容院の鏡に映る、刻一刻と変わっていく自分に釘付けだったのだ。

それに対して、現在は・・・
もう結婚して、子供もいるし、と、もっと気軽な気持ちではあったが
自宅に帰るまでの道のりで、夫や家族の反応にドギマギを感じていた。

いやいや・・・オンナが大胆に髪型を変えるときは、幾つになってもドキドキするもんね。

この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

虐待報道について思うこと

2010年8月5日

今、日本では3日に一度の割合で、子供が虐待死していると言われている。
先日も、幼児遺棄事件が大阪で起こったところだった。

こういう事件が起きると、マスコミはセンセーショナルに取り上げる。
耳を覆いたくなるような内容も多く、胸が痛む。

一児の母として、幼児虐待については、色々と思いを馳せる部分があるが、今回は幼児虐待をめぐるマスコミの報道について、私なりの考えを伝えたいと思う。

確かに、ここ数年で、幼児虐待のニュースは目に見えて、増えているような気がする。

恐らく昔、私が子供だった頃も、今でいう「虐待」というものは存在していたと思うが、それは「ファミリーシークレット」として闇に葬られ、公の目に晒されてなかったのだろう。

こうやって、大々的に報道されることで得られる利点は、確かにある。

闇に葬られていた部分が、報道によって認知されることとなった。多くの人が問題意識を持った結果、児童相談所への通報が増えたと聞いた。

もちろん夜泣き程度での通報といったものもあるが、通報によって助かった命もきっと多いだろう。

そういう意味では、報道による抑制効果はあると言える。

ただ、こういう報道には、抑制効果とは全く逆の、大きな功罪がつきまとう。

一番怖いと私が感じるのは、事件の報道をすればするほど、結果的に多くの人に刷り込まれてしまうことだ。

「親は子供を虐待することもある」

繰り返し、繰り返しその行為をTVという媒体で、五感に強く訴えるということは、その作法を教育しているようなものである。

「みんなもしているから・・・」「私だけではない」と、無意識下で、ある種の免罪符を与えてしまうことにならないだろうか。

このような報道を、全面的に否定している訳では決してない。

が、有名人の自殺報道の後、連鎖的な自殺者が増える傾向と同じものを感じる。

もし、このような報道が殆ど無くなったとしたら・・・
いや、「幼児虐待」という概念や言葉すら、この世に存在しなかったとしたら・・・

それが良い/悪いと見做す前に、そもそも「そんな行為がこの世にある」ということさえ、思いつかなかったかもしれない。

ただでさえ、言葉は概念を創る。世界を創る。
繰り返し耳にする言葉は、自分の意思とは関係なく、無意識化で影響されていく。

残念ながら、マスコミがセンセーショナルに煽らずに、視聴者への影響も考慮した報道の仕方をしているとはあまり思えない。

が、受け手の私たちは、送り手が変わるのを待っていても仕方がない。

そして、報道番組のコメンテーターのように、「身勝手だ」「親として失格」と一方的になじるだけでは、何も変わらない。

私個人としては、こう受け止めたい。

私の中にも、彼らがいる。
彼らが起こしたことは、私にも責任の一端がある。


これはホ・オポノポノのスピリットに通じるところがあると思う。

ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ 神聖なる知能が導く、心の平和のための苦悩の手放し方

最初、ホ・オポノポノの書籍でヒューレン博士のこのような考え方に触れたとき、「そうは言ってもねー」と抵抗してみたものの、やはり行き着くところはココしかないと、実感するようになった。

それを踏まえて、ホ・オポノポノの教えのとおり、唱えてもいいし
私は今回、ほんの小さなことでも、自分に何か出来ることはあるだろうか・・・と考えてみた。


もちろん、彼らがしたことは決して許されることではない。
しかし、少なくても傍観者となって、対象者を責めるだけでは・・・自分すら救われない気がして仕方がない。

マスコミは良くも悪くも、人々の思想形成に大きな影響を与える。
そのパワーを良い方向に利用すれば、人々のさらなる意識進化に導くサポートも出来るかも・・・と思うんだけどなぁ。

そうしたら、もっとTVを観るかもね。
(普段、子供番組以外は観ないので、地デジ対応TVすら、まだ買っていないし)

※今回の問題について取り上げたLilyさんのブログ
 加害者の母親に対して、そしてお子様に対する優しい気持ちに
 私も涙があふれました。

この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

諦めかけてた フォトリーディング再出発へ

2010年7月28日


2010年冒頭に、アミーゴマニュフェストとして、2つの公約を掲げた。

1.英語-「相手の話」を聞き、「自分の意見」を伝える
2.フォトリーディングをマスターする
そのうち、英語学習はコツコツと継続している。
あの時宣言した以上に、今は熱心に続けてるぞぉ。

それに対して、フォトリーディングの方は全くの手付かずであった。

ありがちなことだが、2009年11月に、2日間のフォトリーディング集中講座に参加した直後は、そら、やる気満々だった。

1日1冊、まずは30冊(30日間)、フォトリーディングを続けよう!と、鼻息荒く決意したものだ。

それなのに

今年、2010年度のアミーゴマニュフェストにまで、「マスターするぞ!」と公言したにも関わらず、要領が得ないまま、いつの間にか続かなくなって・・・

結局、昔ながらの読書スタイルにすっかり戻っていた。
まぁ、別にフォトリしなくても普通に読めるんだからイイんだけどね。

そう半ば諦めつつも、何だか釈然としない。

何かが、私を納得させていない。何かが、突き動かそうとしている。

それは

とにかく本を早く多く読みたい! そんな願望より
こうして公言したのに恥ずかしいよーーっという、カッコ悪さよりも

もっと大きな、もっとパワフルなモノである。

それは、未知の世界への扉--というものだろうか。

パラパラとページをめくるだけで、内容が理解できるなんて、ホンマにそんな世界あるの!?

その好奇心を体感してみたいという欲求である。

すっかり醒めていた、フォトリ熱を再燃すべく、お世話になった講師・内方インディさんが最近はじめた「フォトリーディング 2時間再受講クラス」に参加した。

受講後、結果として、またやる気の源に火がついた。

「誤解している人がとても多いけど、
フォトリーディングと普通読みは、非常に相性いいです」

「ぜひ、フォトリーディングと普通読みを併用してください。
フォトリリーディングしてから
その本を普通に読むと、もっと味わい深くなりますよ」


インディさんの言葉で、V字回復した。

そう。私も誤解していたが、特にフォトリーディングをマスターしつつある最中は、普通読みをしてはいけないのかと思っていた。

慣れないうちは、フォトリだと読んだ気にならない。やっぱ、一字一句、文字を追った方が作者と対話している気分にもなるし、その読み方を捨てたくはない。

でも、普通読みを続けている限り、フォトリーディングをマスターできないようだし・・・
そんなジレンマに陥っていた。


が、そうじゃない。二者択一ではなかったんだ。
フォトリーディングと普通の読み方は、実は相互作用するようなのだ。

ならば、やってみようじゃないか!

フォトリーディングを、私のデフォルトな読み方にするかどうかは、その世界を体験してから
考えてみる。

ということで、今年の後半にかけて、このマニュフェスト実現に向けて、精進しまする。

こんな感じでガッツ!

こんな感じでガッツ!



公言したとはいえ、ブログに書きっぱなしで終わると、またいとも簡単に忘却の彼方へ行ってしまう。それでは元の木阿弥だ。

そこで、フォトリーディングした本の報告をTwitterですることにした。

早速、今週月曜日から毎日1冊、フォトリーディングを行い、書籍内容をマインドマップ化したものを、このように写真入りで、Tweetしている。

Gmail仕事術

Gmail仕事術



言葉ではなく 体感でしか理解できない
フォトリーディングの世界はいかがなるものか?


今年末に、「フォトリーディングってねぇ~」と、大いに語れたらいいな!

この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください

英語ベラベラ~んへの道 その2

2010年7月18日

(前回のつづき

さて、アミーゴの次期・英語ベラベラ~ん計画とはいかなるものか?

早速、本題に移ろう。

まず初めに、英語学習には、ざくっと4つの分野がある。


eigo

今までは、聞くを中心にやってきたが、最近は他の3つもバランスよく取り組もうとしている。結局ね、「聞く」だけやってても、英語って聞き取れないのよね。

4つ全部をバランスよく取り組むことで、英語が耳に飛び込んでくるのが分かってきたので。

で、この4つの分野別に、私が2010年末にかけてやることを宣言する。

    1.聞く(Listen)

    VOA special Englishがほぼ80%理解できるようになったところで、次の段階に行くときが来た。
    今度はやっぱ、ナチュラルスピードでしょう。

    VOA(英語学習者用ではなく、自国民向 け)を毎日聞き、まずは60%理解できるように持っていきたい。


    2.読む(Read)

    平素は、前日に聞いたVOA special Englishのスクリプトを読んで、さらなる内容把握と単語調べをしている。

    それをまた続けていくのと
    以前購入したままになってた洋書2冊を読み切ることを宣言する。


    3.話す(Speak)

    私は今、Keith(ザリッチジャパン)という素晴らしい英語ティーチャーにプライベートレッスンをお願いしている。
    通常の英会話レッスンでは、テキストを用意して、それに沿って学ぶというスタイルが多いと思う。

    それと違い、自分が好きなテーマで、自由に話すフリートークのレッスンをお願いしている。

    結局、自分が興味があることだと、聞く意欲も話す意欲も増す。
    Keithが辛抱強く?、私のつたなすぎる英語に耳を傾け、意味を理解してくれようとしている。その上で、正しい言い回しを教えてくれるので、少しずつ話が通じ合うようになってきた。

    今後の展開としては、さらに彼との会話が弾むように
    よく使われる英語フレーズを100覚える!

    最低限の会話術を独学し、本番(レッスン)に臨めるようにしたい。


    4.書く(Write)

    私は英語でしか書かないTwitterIDを取得していて、毎日1Tweetを課している。
    これからは、自分から1Tweet、そして誰かへの1Tweetを日課としよう。

    あと、新たにBlogを立ち上げることを宣言する。
    これは英語のみで書くblog。まずは、月に一度のペースで更新しよう。




いずれも有効期限は、2010年12月31日

ここで宣言したことが続いているか、もしくは完了しているか。
あと、英語学習の進捗状況はいかがなものか?

達成したぞ!という書き込みが出来るよう、頑張るぞーー!!


この記事についてつぶやいてみる。

クリック募金にご協力ください

クリック募金にご協力ください



この投稿の続きを読む »