諦めかけてた フォトリーディング再出発へ

2010年7月28日


2010年冒頭に、アミーゴマニュフェストとして、2つの公約を掲げた。

1.英語-「相手の話」を聞き、「自分の意見」を伝える
2.フォトリーディングをマスターする
そのうち、英語学習はコツコツと継続している。
あの時宣言した以上に、今は熱心に続けてるぞぉ。

それに対して、フォトリーディングの方は全くの手付かずであった。

ありがちなことだが、2009年11月に、2日間のフォトリーディング集中講座に参加した直後は、そら、やる気満々だった。

1日1冊、まずは30冊(30日間)、フォトリーディングを続けよう!と、鼻息荒く決意したものだ。

それなのに

今年、2010年度のアミーゴマニュフェストにまで、「マスターするぞ!」と公言したにも関わらず、要領が得ないまま、いつの間にか続かなくなって・・・

結局、昔ながらの読書スタイルにすっかり戻っていた。
まぁ、別にフォトリしなくても普通に読めるんだからイイんだけどね。

そう半ば諦めつつも、何だか釈然としない。

何かが、私を納得させていない。何かが、突き動かそうとしている。

それは

とにかく本を早く多く読みたい! そんな願望より
こうして公言したのに恥ずかしいよーーっという、カッコ悪さよりも

もっと大きな、もっとパワフルなモノである。

それは、未知の世界への扉--というものだろうか。

パラパラとページをめくるだけで、内容が理解できるなんて、ホンマにそんな世界あるの!?

その好奇心を体感してみたいという欲求である。

すっかり醒めていた、フォトリ熱を再燃すべく、お世話になった講師・内方インディさんが最近はじめた「フォトリーディング 2時間再受講クラス」に参加した。

受講後、結果として、またやる気の源に火がついた。

「誤解している人がとても多いけど、
フォトリーディングと普通読みは、非常に相性いいです」

「ぜひ、フォトリーディングと普通読みを併用してください。
フォトリリーディングしてから
その本を普通に読むと、もっと味わい深くなりますよ」


インディさんの言葉で、V字回復した。

そう。私も誤解していたが、特にフォトリーディングをマスターしつつある最中は、普通読みをしてはいけないのかと思っていた。

慣れないうちは、フォトリだと読んだ気にならない。やっぱ、一字一句、文字を追った方が作者と対話している気分にもなるし、その読み方を捨てたくはない。

でも、普通読みを続けている限り、フォトリーディングをマスターできないようだし・・・
そんなジレンマに陥っていた。


が、そうじゃない。二者択一ではなかったんだ。
フォトリーディングと普通の読み方は、実は相互作用するようなのだ。

ならば、やってみようじゃないか!

フォトリーディングを、私のデフォルトな読み方にするかどうかは、その世界を体験してから
考えてみる。

ということで、今年の後半にかけて、このマニュフェスト実現に向けて、精進しまする。

こんな感じでガッツ!

こんな感じでガッツ!



公言したとはいえ、ブログに書きっぱなしで終わると、またいとも簡単に忘却の彼方へ行ってしまう。それでは元の木阿弥だ。

そこで、フォトリーディングした本の報告をTwitterですることにした。

早速、今週月曜日から毎日1冊、フォトリーディングを行い、書籍内容をマインドマップ化したものを、このように写真入りで、Tweetしている。

Gmail仕事術

Gmail仕事術



言葉ではなく 体感でしか理解できない
フォトリーディングの世界はいかがなるものか?


今年末に、「フォトリーディングってねぇ~」と、大いに語れたらいいな!

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英語ベラベラ~んへの道 その2

2010年7月18日

(前回のつづき

さて、アミーゴの次期・英語ベラベラ~ん計画とはいかなるものか?

早速、本題に移ろう。

まず初めに、英語学習には、ざくっと4つの分野がある。


eigo

今までは、聞くを中心にやってきたが、最近は他の3つもバランスよく取り組もうとしている。結局ね、「聞く」だけやってても、英語って聞き取れないのよね。

4つ全部をバランスよく取り組むことで、英語が耳に飛び込んでくるのが分かってきたので。

で、この4つの分野別に、私が2010年末にかけてやることを宣言する。

    1.聞く(Listen)

    VOA special Englishがほぼ80%理解できるようになったところで、次の段階に行くときが来た。
    今度はやっぱ、ナチュラルスピードでしょう。

    VOA(英語学習者用ではなく、自国民向 け)を毎日聞き、まずは60%理解できるように持っていきたい。


    2.読む(Read)

    平素は、前日に聞いたVOA special Englishのスクリプトを読んで、さらなる内容把握と単語調べをしている。

    それをまた続けていくのと
    以前購入したままになってた洋書2冊を読み切ることを宣言する。


    3.話す(Speak)

    私は今、Keith(ザリッチジャパン)という素晴らしい英語ティーチャーにプライベートレッスンをお願いしている。
    通常の英会話レッスンでは、テキストを用意して、それに沿って学ぶというスタイルが多いと思う。

    それと違い、自分が好きなテーマで、自由に話すフリートークのレッスンをお願いしている。

    結局、自分が興味があることだと、聞く意欲も話す意欲も増す。
    Keithが辛抱強く?、私のつたなすぎる英語に耳を傾け、意味を理解してくれようとしている。その上で、正しい言い回しを教えてくれるので、少しずつ話が通じ合うようになってきた。

    今後の展開としては、さらに彼との会話が弾むように
    よく使われる英語フレーズを100覚える!

    最低限の会話術を独学し、本番(レッスン)に臨めるようにしたい。


    4.書く(Write)

    私は英語でしか書かないTwitterIDを取得していて、毎日1Tweetを課している。
    これからは、自分から1Tweet、そして誰かへの1Tweetを日課としよう。

    あと、新たにBlogを立ち上げることを宣言する。
    これは英語のみで書くblog。まずは、月に一度のペースで更新しよう。




いずれも有効期限は、2010年12月31日

ここで宣言したことが続いているか、もしくは完了しているか。
あと、英語学習の進捗状況はいかがなものか?

達成したぞ!という書き込みが出来るよう、頑張るぞーー!!


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英語ベラベラ~んへの道のり その1

2010年7月15日

「この1年で、先が見えなければ、きっぱりアイツとは別れます。」

2009年7月10日-あの夏の日に、私はブログ上でこう言い放った。

長年ズルズルと、腐れ縁のごとく引きずり続けた 私の夢

「英語を話せるようになりたい」

↑こんな感じ 英語べらべら~ん

↑こんな感じ 英語べらべら~ん



もし2010年7月10日までに、ある結果がでなければ、今世での「英会話への夢」は、きっぱり諦めようと決意したのだ。1年前の今頃にね。

で、その「結果」というのは、「VOA Special Englishを80%以上、聞き取れるようになること」と、設定していた。

VOA Special Englishとは?

英語を母語としない人々に向け、平易な語彙と文法を用いた上で、通常の3分の2の速さでアナウンサーが語るスペシャル・イングリッシュという英語放送

で、この目標はどうなったか?
兵どもが夢の跡となったのか??

フフフ・・・腐れ縁をまだ続けることになったわよん♪

ほほほほほ~♪
ようは、目標をクリアできたのよ!!

毎日Podcastで、VOA Special Englishを聴き続けた結果、内容にもよるが、
ほぼ80%の内容が理解できるようになった!

これは私にとって、すごい進歩である。

今まで、私と英語の関係は、挫折の歴史であった。

「英語の聞き取り(Hearing)は、ある時期が来るまで平行線が続く。

そこで挫折する人は多いが、それでもメゲずに続けてると、ある時急に、聞き取れるようになったと実感できる」

そんな話もよく耳にしていた。

ようし、ある時期が来るのを信じて頑張ろう!
今まで何度、「今度こそ!」の決意をしたものだろうか。

ヒアリングマラソンも、スピードラーニングもチャレンジしたけど・・・
私の歩いてきた道のりに、やる気の死骸がゴロゴロ横たわっている。

2009年夏、ブログであの記事を書いたときは、そんな歴史にケリをつけようとしたのだ。

そんな決死な覚悟で挑んだものの、最初は、VOA Special Englishを聞いていても、何が何やらさっぱり分からなかった。
夜、娘が寝静まってからが、私が聴く時間だったんだが、英語を聴いていると、まぁよく眠くなること・・・

こんなん、続けててもあかんのとちゃう?
娘に早く英語をマスターさせて、通訳させた方が早いかも・・・そんな誘惑にもゆらゆら揺れた。

が、何だかんだと続けた結果、いつの間にか、である。

 「あら、だいぶ内容が理解できるようになったんでは!」と気づいたのは。

グラグラ生煮え状態だった液体が、知らぬ間に沸点を超え、気体となったような感覚である。

目に見える成果が出ると、やはり、やる気が出てくる。
「ここまで頑張ったんだから・・・」とイイ執着が出てきて、次に向かうエネルギーが湧いてくる。

英語ベラベラ~んへの道のりは、遥か彼方ではあるが
小さな成功体験があるかないかは、全然違うんだ実感。

その勢いに乗じて、私は次期・英語ベラベラ~ん計画を立ててみた。

その内容は・・・次回にて発表する! こうご期待~。

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お酒って割に合わないかも

2010年7月8日

「本当は私、どこかで辞めたいと思ってる!?」

私はさほど強くもないに関わらず、お酒が好きだ。
特に赤ワインが好きで、量は大したことがないが、毎日ちびちび飲む。

「仕事終わった後の、ささやかなごほうび」ってのが、ワインの位置づけなので、私の中で、すっかりアドレナリンと結びついてしまってる。
しかも毎日、晩酌していると、ソレが無いと何だか物足りないのだ。

まぁ、それで支障がなければいいのだが、幸か不幸か、私は胃腸が強くないので、翌朝、体の仕上がりが、良好ではない。

ちびちびワインが毎日続くと、体のどんより感が少しずつ増してくるのだ。イエローカードが見えてきたら、その日は休肝日の看板をおろす。1日休みをとると、大抵は調子が戻る。

そんなこんなで、半ば誤魔化しながら、ここまで来たけれど。
でも、心の中に生じては消えない疑念が、少しずつ大きくなってきた。

「お酒飲むのって、やっぱ費用対効果が低すぎるんじゃないか?」


加齢のせいもあるが、アルコールの翌朝は、「体に負担かけてるよなぁ~」のをひしひしと感じるようになった。




そこで、今まではウヤムヤにしてきたこの議題について、アミーゴ総研にご登場いただき、左脳的に分析してみることにした。

飲酒によって、何が得られるのか?
それは失われるものに対して、多大の恵みを与えるものなのか?

まず、飲酒によって得られるメリットを考えてみよう。

そもそも、なぜお酒が好きなのか?

それは・・・
酒飲みな方なら分かると思うが、ほろ酔い時に味わえる「ほわーーん」とした感覚が好きなのだ。一種のトリップなのかな。

居酒屋でワイワイするのが特に好き。
「ほわーん」を味わう中で、気持ちがほどけ、リラックスするので、愉快に会話をたしなめる。

この、ほろ酔い「ほわーん」持続時間であるが、だいたい30分、長くて1時間。

「ほわーん」時間に長くゆっくり愉しもうと飲酒ピッチを上げると、いとも簡単にほろ酔いを通り越してしまう。
陽気に歌うとか、寝るとかではなく、トイレに引きこもってしまうのだ。
これはさすがに割に合わないので、臨界点を超えない程度の飲酒量は心掛けている。

で、「ほわーん」30分強を得ることによって、失われるものは何だろう?

端的にいえば、翌朝の体調である。

ビール1杯くらいなら影響ないが、私が好きなワインは、結構カラダにクルのよね~。
3杯以上飲むと、眠りも浅くなるし、なんせ翌朝が堪える。

仕事が出来ないほどではないが、エンジンがかかるのが遅れる。

それを明確に自覚したのは、ノンアルコールの翌朝を味わいつくしたからだ。

最近、夏バテ気味だったので、しばらくノンアルコールを続けている。
するとねぇ、やっぱデキメンなのよ。
翌朝の仕上がりが全然違うし、仕事エンジンもすぐに全開となる。しかも、体が軽い感覚が1日続く。

で、まとめてみると

前日の飲酒によって得たもの 「ほわーん」 30分なり
失うもの 朝起きてから、午前中ずっと続く 「けだるさ」 6時間なり
(午後になると、回復してくるので)

となると、30分の「ほわーん」のために、翌朝の「6時間」が奪われる訳か!!


やっぱ割に合わない、費用対効果も悪すぎるっ!

ってなことを、延々と頭の中でやってた訳だが、どうやら左脳が私に納得させたかったみたい。

私もどこかで、ついついクセとなっていた、毎日の飲酒にピリオドを打ちたかったのではなかろうか。

ということで、禁酒ではなく、減酒を、ここで宣言する。

翌朝仕事がある日(つまり、ウィークディね)は、お酒を飲まない

・お酒を飲んでもよかろう日
・翌朝仕事がない日(つまり、休前日ね)
・飲み会がある日(まぁ、めったに平日は行かないので、実質的に休前日となる)



「おぉ、やっとアミーゴも目覚めたか。」

飲めない訳じゃないが、自分から好んでたしなむことはない夫は、手放しで喜んでいた。

一人だと、すぐに意思が折れてしまう私なので、衆知の目にさらすために、思い切って、ブログで宣言してみた。(後戻りできない・・・)

とりあえず、3ヶ月間(9月いっぱいね)頑張ってみるぞ!

果たして達成できたかどうか・・・その結果をブログに書くね。

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クレームのコスト

2010年7月3日

先日、ネットショップで、友人の出産祝いを注文した。
早く届けたくて、注文した日にネットで振込んだ。あとは、「いつものように」配達してくれるを待つばかりだと思っていた。

それだけに、ネットショップから届いたメールに、軽く動揺した。

「入金確認しましたが、ラッピング代◯◯円が含まれていません。
至急、残金をお振込み頂かないと、発送できません。」

えーーっ、私、何か見落としたのかなぁ~。
申込時に届いたショップからの自動返信メールを検索し、再度確認した。
そこには、別途かかるラッピング代についての記載は一切なく、商品代と送料を合算した金額が、合計金額欄に記載されていた。

いつものクセで、ショップからのメールに書かれてた合計金額を、そのまま振り込んだのだ。

そう言われてみれば、ショッピングカートの操作画面で、ラッピング代についての記載があったような気がした。
が、いちいち覚えてなくても、また自動返信メールで、ラッピング代をONした金額を請求してくれろうだろうと、すっかり思い込んでいた。

その件でネットショップに問い合わせしたところ、「サイトにも掲載してますよ」と、つれない返事。

まるで、こちらだけに非があるかのような、あの書き方はナニ?

さて、それから、どうしようか。
考えられる、3つの対応をあげてみた。

  1. クレームという形になるが、まずは、ネットショップにこちらの意見を伝える。
  2. クレーム付ける時間も、また別のショップをさがす時間もないので、スゴスゴと残金を払う。
  3. こんな失礼な対応のショップで購入するのは不本意だ。返金してもらう。
私は苦悶した。

本来、人にクレームを伝えるのは、あまり好きではない。

伝えるのに、めちゃめちゃエネルギーを消費する。
さらに、時間がもったいないし、今回は見過ごそうかとも思った。(つまり、2ね)

でも考えあぐねた結果・・・
1を選択することにした。

なぜなら・・・

私どももネットで物販を行っているし、ショッピングカートも設置していた。
同業者らしき立場から、見て見ぬふりが出来なかったのだ。

私どもの経験から言えるのは、お客様はネットショップ側が提示する別料金の仕組みを、そんなには覚えていない。
これは悪気があるのではなく、お客様も忙しく、いちいち覚えていられないからだ。

だから、お客様の負担が少なく済むように、お客様側でいちいち別料金を計算して振り込まずに済むように、合計金額を、販売側で合算しておくべきだと思う。

お客様にとっても、不足費用を再度振り込むことは、再度、振込手数料を負担することを意味する。それを未然に防ぐ手立ては、販売側で考えるべきだろう。

自動返信メールにて、追加料金を記載していなかったことに悪びれもなく、「お客様がきちんと覚えておくべき」と信じて疑わない態度に、一石を投じてみたくなったのだ。

良心的なネットショップなら、お客様の声に真摯に傾けるだろう。
その上で、対策を練ってもらった方が、彼らの今後のためかもしれない・・・そんな親心も少しだけあった。

(あっ、それはかっこよく言い過ぎで、お怒りの気持ちも強いですぞーーー)

その事を、メールで冷静に説明してみようと、書いては消してを繰り返した。
案の定、時間がめちゃくちゃかかった。

やっと、書き上げたメールを送信する前に、また様々な気持ちがよぎった。

熱意を込めて(怒りもこめてるけど(苦笑))伝えたつもりだが、結局は意図が伝わらず、骨折り損になるかもしれない。
相手には「モンスター」扱いにされるかもしれない。

はぁ、かかった時間のコストを考えると
金持ち、喧嘩せず・・・ってよく言ったもんだなぁ。


が、せっかく書いたんだし・・・と、送信ボタンを押したのだ。

で、事の顛末はというと・・・私が伝えたクレームに関する、ネットショップ側の返答は一切なかった。

その代わりかどうかは分からないが、別途料金のラッピング代の請求がうやむやになったまま、「商品発送のお知らせ」が届いた。

うーん、何だか伝わったのか、モンスター扱い?にされたのかさっぱり分からないが、これ以上の追求はしない。

ただ、他人事とは思えないことでもあった。
常に、お客様の立場に立っているつもりが、長くやっていると、「これくらいは、分かってくれるだろう」という甘えがどうしても出てきてしまう。

他山の石として、よい教訓を頂いた。

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「自由に話して下さい」の不自由さ

2010年6月25日

ブログでもたびたびお伝えしている通り、最近の私はすっかり「対話」に目覚めている。
なので、可能な限り、あちこちの対話の場(主にワールドカフェ)に参加し、自らも対話の会を催したりしている。

こういった参加者が主体的に話す対話の場では、参加者が対話を始める前に、ファシリテーターが簡単にその会の趣旨や、注意点(一人が長く話しすぎないように)などを話すことが多い。

その際に、ファシリテーターが、何気なくよく使う言葉がある。

「何でも自由に話して下さい」

この言葉。私も対話の場を主宰する際には、よく使う。

これは、上手に話さないといけないとか、そういう事は気にせずに、自分が感じていることをそのまま言葉に出して下さいね、というファシリテーターからのメッセージであり、温かい思いから発せられることが多い。

自分が感じるままに、自由に話が出来る。
自分の内側からほとばしるようなことが語れる・・・そんな活発な対話の場を想像しがちだが、果たしてそうだろうか?

もちろん、そうなるケースもあるが、停滞してしまうケースも実は多々経験してきた。

「何でも話していいはずなのに、何も話すことが無くなった」という体験を、何度かしてきた。自分の主宰分も含めて。

それはナゼだろう・・・自分なりに色々と探ってみたところ、改めて感じたことがある。


「何でも自由に話す」ということが、いかに難しいかということを。

なぜなら、この「自由に」ということが、意外とクセ者であるからだ。
自由にと言っておきながらも、では全くの制限なく、何でも話していい場なのか?と言われると、そうではない。

そこには、ファシリテーターが漠然と意図している「自由」の範疇がある。
参加者も、それは漠然と察している。

参加者なりに、その場の空気、ファシリテーターの意図を探りながらも、「その場で了承してもらえるだろう”自由”」の範疇で話すことになる。

「自由に話す」と言われると、ある意味分かったような気になるが、実は人によって、定義もイメージも全く違う。

  • ある人は、普段、職場の人とは話せないディープな会話(哲学的やスピリッチャルなど)を「自由に」話したいと思う。
  • またある人は、特に話したいことはないけど、何でも話せる場だったら、日常の憂さでも「自由に」話そうかと思う。
  • またある人は・・・
という風に、「自由に話したい内容」の中に、何が入るのかは人によって違うのだ。

その参加者がおぼろげにでも感じていた「話したかったこと」が話せる場になればいいが、対話相手との流れにより、そうはならないことも多い。

ただの雑談で終わったなぁ・・・そう感じたことも正直あった。

例え、雑談に終わろうとも、その場で生まれたものを大切にしたい。
主宰者がそのこと自体に意義を感じていたら、それでOKだと思う。


しかし、「こんな対話が行われる場になれば・・」

漠然とでも、主宰者側にもそんな意図や願いがあるならば、「何でも自由に」で、参加者の意図に任せるだけの形ではなく、「ここでは、どんな対話が行われる場なのか」を、もしくはそこでの対話のルールを明確にしておいた方がいいのではないだろうか。

主宰者の意図や、そこで行われるべき「対話のルール」を想定することは、ある意味では対話の不自由さを感じさせるかもしれない。

しかし、「自由に話す」ということ自体も、結局は「自由らしきもの」の枠組みに入れるということである。

どの道、枠組みに入ってしまうならば、自分はどの枠組みを選ぶだろうか。

いずれにせよ、主宰者が実現した対話の場を明確にし、それに従って対話を進めてもらうようにした方が、参加者にとっても、かえって負担が軽くなるのではないだろうか。


「何でも自由」というのは、かえって制限が加えられるということを実感する、今日この頃である。

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私が結婚に追い込みました(笑)

2010年6月17日

最近、シリアスなテーマが続いてたので、今回はライトでウフフなネタを。

『一応、結婚の話は出てるんだけど・・・いつ、結婚するんかなぁ~?
本当にするのかなぁ~、分からなくてぇ』

先日、久々にランチを一緒にした友人が、笑いながらこう語った。

両親にお互いを紹介しているし、お互いにその気はあるのは間違いないが、ソレ以上の進展はないそうだ。

私はパスタをほおばりながら、思わず口走ってしまった。

『そんなん、どっちかが押し切らないと、決まらないでぇぇ~』

そう。これは、経験から言ったセリフなのだ。


あれは、もう9年前。

「結婚しようか」
付き合い始めて数ヶ月で、彼はプロポーズしてくれた。
あぁ、天にも昇る気持ちになった。ブラボー♪♪

このまま両親への紹介、顔合わせ、式場決定など、コトがスムーズに運んでいくものだと、その時点では信じていた。

ゼクシィまで買っちゃったよう。

・・・なのに、それから数ヶ月、何も進展が無かった。

彼の気が変わったという訳ではなさそうだが、「じゃあ、いつ?」と尋ねると、曖昧な返事で、はっきりとしない。

放置プレイされてしまったのだ。

「なんか、結婚を急かしたら、彼にプレッシャー与えるかもしれないしぃ~。
それって、なんか重くない?やっぱ、その気になるまで待とうか」

たぶん、20代の私だったら、妙なプライドもあったりして、彼の前で余裕な素振りをしてたかもしれない。

「別にぃ、結婚焦ってないしぃ、もっとしたいことあるしぃ」

が、30代に突入していたからかどうか分からないが、宙ぶらりんを許容する気にはなれなかった。

「だって、結婚したいじゃん! それが何か?」
ある意味、開き直った自分になっていたのだ。


ある日、思い切って、問い詰めてみた。

『なぁ、いつ結婚するの? そろそろはっきり決めようよ』

『いや、俺はまだ独立して間がないし、安定してから考えるわ』

なにぃ~!!
私はブチ切れた。

『あなたの仕事って、自営業って、いつ安定するの? 一生安定せぇへんのとちゃう?!!!』

ウググ。彼は、次の言葉が出なかった。

なーんか、追い詰めた感じもしたが、
結果的に、このセリフがシュートを放ったようだ。

「そうやなぁ~、
 自分の仕事は確かに、一生安泰ってことはないなぁ~。」

彼は覚悟を決めたようだ。
その後まもなく、私の家に挨拶に来てくれることを、ついに承諾した。

それからは、とんとん拍子にコトが進み、半年後に鐘を鳴らすことが出来た。


この4月で結婚8年目を迎えたが、あの時、私が曖昧を認めていたら、「現在」は変わっていたかもしれない。

ゴールインはさらに先だったかもしれないし、立ち消えになった可能性すらある。

全てのケースがこのような結果になるかどうかは別として、私の場合は、素直に自分の欲求を伝えて良かったと思う。

周りの友人たちをみていても、女性が結婚を押し切るケースの方が多いかな

なぜだろう・・・??

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祈りのコーチング

2010年6月14日

先週金曜日、コーチングの会社CTIジャパンが大阪で開催した「対話の会」に参加した。

これは、今流行りのワールドカフェの形式を使って、これからのコーチングについて、集まったメンバーで話しあうという趣旨である。

ファシリテーターは、CTIジャパンに復帰した榎本英剛さん。

彼は冒頭で、対話の呼び水として、自分の思いを語り始めた。

なぜ、コーチングの世界に復帰しようと決めたのか
数年間、外側からみたコーチング業界を、彼はどんな風に観ていたか。


などなど。
彼の誠実な言葉、静かなエネルギーに触れ、私の中で何かが動いた。


そして、いよいよワールドカフェが始まる。
榎本さんから、一つの問いが提示された。

各テーブルは4名前後だが、話すメンバーを変えながら、榎本さんからの問いについて話しあった。

ワールドカフェの中で、皆さんの考えや意見を浴びながら、私の中で、色々と化学反応が起こった。

そして、ワールドカフェの3ラウンド目。
私はあるキーワードに、目が奪われた。

「祈り」

改めて、そうだと感じた。

コーチングは、祈りだということ。

コーチングという対話を通して、クライアントは自己の内側に深く堀下がっていく。
それによって、結果的に、クライアントに変容をもたらすかもしれない。

が、それはあくまでも「結果的に」である。
コーチなりの人事を尽くして、あとは委ねるしかないと、私は思う。

クライアントの変容をサポートするために、コーチが出来ることは

安全な場を確保すること
青虫がさなぎを経て、蝶になるように
さなぎのような安全な場を創って、クライアントが変容を見守っていくこと

そして・・・祈ること

究極的には、ソレしかないのでは。

 「クライアントに、良きことが起こりますように・・・」

祈りの言葉は、こんな表現かもしれない。

しかし、コーチが自分の価値観・枠組みの中からの「良きことを」と願うものでは決してない。自分の価値観を手放した、あるいは一旦、横に置いた上で

汝が汝でありますように・・・

そんな、ピュアな気持ちからの祈りだと思う。


マザー・テレサのような活動であっても、コーチングであっても、その他どんな仕事であっても、究極的には全て、「祈り」に通じるのではなかろうか。

そんなことを感じた、CTI対話の会であった。


最後に、ちょっと本題からは外れるが。
いみじくも、榎本さんはこの会の最後に、こう語りかけた。

「これからは、対話が大事です。
私たちもこういった対話の会を、これからも開催しようと思ってますし
皆さんもぜひ、自分の周りで対話の場を設けてください」

まぁ、榎本さんっ、あなたまで!
私も対話の会をやり始めてまっせ! と心の中で、関西弁突っ込みを行ったが。

去年から今年に入ってだろうか、対話の重要性があちこちで問われ、
対話の場、対話の機会が、全国各地で同時多発的に行われているようだ。

対話というものを通して、人々は何かを希求している・・・そんな息吹を感じさせる今日この頃である。


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もしも命が無限だとしたら・・・

2010年6月9日

昨日のブログで、「もしも命があと一年・・・一週間だったら?」という問いを立ててみたが、
偶然にも、私の友人がブログで、真逆の問いを発していた。

「もしも今の肉体のままで、命が無限だったら、何をするでしょうか?」

彼女の問いは上記そのものではないが、私はこのように解釈し、改めて思索にふけってみた。

命に制限を加えての問いはよく見かける。
が、無制限になったとしたら・・・という問いは、あまり見かけたことがない。

うーん、逆に制限が無くなったら、何をしたいかな~。
この問いに対する、明確な答えは私の中でまた出てきていない。

が、もしこの肉体のままで、不老不死になったとしたら・・・
これは人間の存在を、根本から揺るがすものではなかろうか。


私たち人間は、地球上の生物といってもいいだろうか、命には限りがあるという大前提で生きている。

自分たちの中にある様々な考えや思想を取り外しても、この大前提だけは動かしもない真実とされている。

が、当たり前すぎて、抵抗の余地もなかった、この大前提が無くなってしまったら
ある時を境に、命の制限が無くなってしまったら・・・

そんな人類史上、未曾有の大転換が起こってしまったら、この人間社会はどうなるのだろう??

だって、社会の仕組み、思想の根本背景からして、「人はいつか死ぬ」というものが組み込まれている。そこも、根本的に組み替えていく必要がでるだろう。

また、いつかは死ぬことを前提とした、「よりよく生きるには?」の問いが
「よりよく生き続けるには?」という問いに転換される。

改めて、問う。
「もしも今の肉体のままで(健康状態も良好なまま)、命が無限だったら・・・・」

今、心に思う夢に向かって邁進し、かなりの時間を経て叶う人もいるだろう。

もっとも、独裁者となって、世界征服も出来るかもしれない。

しかし、成し遂げられた先にも、まだ人生が脈々と続いていく・・・となったとき、どうなんだろう??


 人は幸せを感じ続けることが出来るのだろうか?

 人生に飽きることなく、生き続けることが出来るのだろうか?


・・・これも、私には答えがない。思考実験のようなものだから。

ただ、何となく思うことがある。
恐らくエゴを満たし続けるだけでは、幸せを感じながら、膨大な時間を生き続けるのは難しいだろう。

いいかげん、飽きてくるような気がするなぁ。
怠惰になるにもいいけど、それでも時間が有り余る。

そうなると、自分の境地も別の次元にいかなあかん!ということで、悟りとかに自然と向かっていくかもしれないね。

今の私たちの多くは、命の制限を感じたとき、生を輝かそうという動きになる。
逆に、命が無制限になっても、今とは別の形で、生を輝かさざるえないかもしれないなぁ。

とまぁ、とりとめもなく、結論もない話となったが。
いつもとは違う頭が刺激されて、面白い機会となった。

これからも、折をみて、考えてみようかな。

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私たちに明日の保証はない

2010年6月8日

先日、知人が急逝した。
この一報を聞いたとき、頭が真っ白になった。そして叫んだ。

「何で?」

後になって、心不全だと聞いた。

私は一度しかお会いしたことがなかったが、マイミクだったり、Twitterでフォローしあったりで、何かしらの繋がりを感じていた人だった。

衝撃的だった。

それと同時に、改めて思い知らされた。

明日の保証が無い・・・
私たち人間は誰一人として。


昔と違い、死を身近に感じる機会が少ない現在。
心臓の鼓動が、脈々と続くような錯覚すら覚えてしまう。

来年も、再来年も当たり前のように訪れることを前提に、コトを進めようとするが。

「命があと1年だったら・・・1ヶ月だったら・・・あなたは何をしますか?」

ソースワークショップでは、そんな問いを投げかけられる。

これは決して、バーチャルな問いではない。
いつ何時、現実になるかもしれない問いなのだ。

改めて、自分の内側に問うてみた。

もし、人生の成功というものがあるとしたら
「あぁ・・・この人生で良かった」
そう心から思える最後を迎えることかなぁ、と私自身は思っている。


では、有終の美を飾るために、何をしていきたいだろう。
何に命を使っていきたいのだろうか?

やはり・・・・
やはり、そうなんだ。

「対話」

前回のブログで、今後のファインネットワールドは「対話」という方向へ舵を取っていくと書いた。

そうなんだ。
関わって下さった方と、深く共鳴しあうような対話をじっくりとしていきたい。

 ただ、対話を通して、
  相手に、多くの人に、何か伝えたいことがある訳でもない。
  こうなって欲しいというものもない。

ただただ、対話を通して、エネルギーを深く交流しあうことで、何かの痕跡を残していけたら・・・

これからの人生の中で、自分と相手を掛け合わせながら、自然に変容へと進む道を歩んでいけたらなぁ・・・

そんな静かな願いが今、満ち溢れている。

「これが生きる道だ!」とかいう、激しいうねりは私の中にない。
ただ淡々と、導かれる方向へと進んだ結果、

気がついたら、天命を生きていたということになるかもしれない。

それは、この世を去る瞬間に分かる、クイズの答えかもしれないが、今はその時を楽しみにしていよう。

同世代の知人の死は、私に一番大切な事を教えてくれた。

ありがとう。



このことを、ブログに書くのは躊躇しました。
でも、多くの人に喜びをもたらした彼だったら、自分の存在を通して、何か気づいてもらえたら嬉しいのでは・・・と思い、感謝を込めて、書くことにしました。

多くの人に愛され続けたターザンさんのブログがここにあります。
On the Road~夢を叶える人生の道を

心からご冥福をお祈りします。
この世でのご縁に感謝しながら、またお会いするときを楽しみにしています。

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