ブログでもたびたびお伝えしている通り、最近の私はすっかり「対話」に目覚めている。
なので、可能な限り、あちこちの対話の場(主にワールドカフェ)に参加し、自らも対話の会を催したりしている。
こういった参加者が主体的に話す対話の場では、参加者が対話を始める前に、ファシリテーターが簡単にその会の趣旨や、注意点(一人が長く話しすぎないように)などを話すことが多い。
その際に、ファシリテーターが、何気なくよく使う言葉がある。
「何でも自由に話して下さい」
この言葉。私も対話の場を主宰する際には、よく使う。
これは、上手に話さないといけないとか、そういう事は気にせずに、自分が感じていることをそのまま言葉に出して下さいね、というファシリテーターからのメッセージであり、温かい思いから発せられることが多い。
自分が感じるままに、自由に話が出来る。
自分の内側からほとばしるようなことが語れる・・・そんな活発な対話の場を想像しがちだが、果たしてそうだろうか?
もちろん、そうなるケースもあるが、停滞してしまうケースも実は多々経験してきた。
「何でも話していいはずなのに、何も話すことが無くなった」という体験を、何度かしてきた。自分の主宰分も含めて。
それはナゼだろう・・・自分なりに色々と探ってみたところ、改めて感じたことがある。
「何でも自由に話す」ということが、いかに難しいかということを。
なぜなら、この「自由に」ということが、意外とクセ者であるからだ。
自由にと言っておきながらも、では全くの制限なく、何でも話していい場なのか?と言われると、そうではない。
そこには、ファシリテーターが漠然と意図している「自由」の範疇がある。
参加者も、それは漠然と察している。
参加者なりに、その場の空気、ファシリテーターの意図を探りながらも、「その場で了承してもらえるだろう”自由”」の範疇で話すことになる。
「自由に話す」と言われると、ある意味分かったような気になるが、実は人によって、定義もイメージも全く違う。
- ある人は、普段、職場の人とは話せないディープな会話(哲学的やスピリッチャルなど)を「自由に」話したいと思う。
- またある人は、特に話したいことはないけど、何でも話せる場だったら、日常の憂さでも「自由に」話そうかと思う。
- またある人は・・・
その参加者がおぼろげにでも感じていた「話したかったこと」が話せる場になればいいが、対話相手との流れにより、そうはならないことも多い。
ただの雑談で終わったなぁ・・・そう感じたことも正直あった。
例え、雑談に終わろうとも、その場で生まれたものを大切にしたい。
主宰者がそのこと自体に意義を感じていたら、それでOKだと思う。
しかし、「こんな対話が行われる場になれば・・」
漠然とでも、主宰者側にもそんな意図や願いがあるならば、「何でも自由に」で、参加者の意図に任せるだけの形ではなく、「ここでは、どんな対話が行われる場なのか」を、もしくはそこでの対話のルールを明確にしておいた方がいいのではないだろうか。
主宰者の意図や、そこで行われるべき「対話のルール」を想定することは、ある意味では対話の不自由さを感じさせるかもしれない。
しかし、「自由に話す」ということ自体も、結局は「自由らしきもの」の枠組みに入れるということである。
どの道、枠組みに入ってしまうならば、自分はどの枠組みを選ぶだろうか。
いずれにせよ、主宰者が実現した対話の場を明確にし、それに従って対話を進めてもらうようにした方が、参加者にとっても、かえって負担が軽くなるのではないだろうか。
「何でも自由」というのは、かえって制限が加えられるということを実感する、今日この頃である。









