‘自己啓発’ カテゴリーのアーカイブ

抑圧した思いの行方 ~NRTを受講して

2010年8月17日 火曜日

先週末、山崎啓支さんのセミナー「NRT」ステージⅠを受講した。

いつもは山崎さんのセミナーを主宰する立場であったので、全くのいち受講生として学んだのは、5年ぶり。何だか感慨深いなぁ。

とはいえ、あまり何も考えず、ほのかな期待をスパイスにしながら、ステージⅠに挑んだ。

NRTは、山崎さんが長年開発して、ようやく昨年からリリースを始めた新プログラムである。

そこでの学びはシンプルで、かつ、深淵なもの。

が、どんな内容で、どう素晴らしいのか、言葉で伝えようとすると、肝心なところが抜け落ちてしまう。

なので、興味を持った方はNRTのサイトを見るなり、説明会に足を運んで頂くといいかと思う。
ここでは、私の受講体験を通して得た、個人的な学び・気づきについてお話する。

その前に少しだけ、あくまでも、私のフィルターを通して、NRTで学んだことについて説明してみよう。


本来の自分に戻るのがその目的だが、本来の自分で生きることを妨げるものに誤魔化されながら、私たちは生きている。

何が、私たちの目を曇らせているか?

「~あらねばならない」「◯◯である自分」「~ではダメだ」
過去からの記憶によって創り出された考えや価値観が、私たちを惑わせている。


驚くべきことは、自分を縛りつけている価値観だけでなく、心地良い、世間的にも良いとされている価値観も全て、目を曇らせる要素となるのだ。

全ての価値観や思考から離れて、瞬間瞬間に立ち上ってくる 生の自分を思い出し、戻ることによって、どこにも負荷がない豊かな自分になれる。

こう書くと、悟りに近い状態をイメージする方もおられるかもしれないが、それとは違う。

この世のどこにもない、二度と再生も出来ない。
悠久のときが流れゆく中の、その刹那に生成された自分を体験する・・・



あえて言葉にすると、そんな感覚だろうか。

うーん・・・文字にはするのは難しいねぇ。




では、現実に何が起こって、何に気づいたかをお伝えする。
ステージⅠの最終日に、私は山崎さんから、ワークを受けた。

私はときどき、駄々をこねる娘に対して、どうしようもなく怒りを感じることがある。
それはもちろん、私の中の抑止する力(手を出してはいけない、という思考)が働いて、手を出すというところには至らないが、時々、背筋が凍ることさえある。

この気持ちは何だろう・・・どこから来るのだろうか。

「良い母親であらねばならない」「子供をしつけなければならない」といった、無数の価値観が、私の中に蠢いているのは感じていたが、それだけでは納得できないものがあったのだ。

NRTの受講が進む中で、ふっと思い出したことがあったのだ。

以前、ブログでも書いたことがあるが、私は娘の出産後、ひどく精神的に落ち込んだことがあった

「子供を産むんじゃなかった・・・」

それは、ホルモンの変化による産後うつだったと、レッテル貼って、終わらせたつもりであった。

しかし、それは間違いだった。
ただのマヤカシであり、単に、抑圧しただけであった。

それが娘に対して、イライラを募らせる大きな親玉でもあった。


それをワークのテーマにはしたが、具体的内容は何一つ語ることのないまま、ワークが進んでいく。

私の様子を注意深くみながら、山崎さんがゆっくりと誘導していく

 「もっと深く感じて」「もっともっと強く感じて」

怖かったけど、あの時の状態を思い出し、深めていった。

子供を産んだ・・・その事実を現実として迫ってきたとき。あの瞬間。

喜びどころか、怖くて仕方がなくなった。


 重たかったのだ。

 一人の人間の命を 突然託され
 自分の存在がどうしようもなく その人の人生に影響を与えてしまうこと
 その重さに


 耐えられなくなったのだ。



今までは、自分のことだけを考えれば、それで良かった。
そんなお気軽な人生、もう時計の針は戻らない。

これから人生をかけて、子供を立派に、一人前に育てていかなければならない。
天から任された任務から、逃げ出したくなったのだ。

こんなことを思ってしまう自分に怖くなり、産後で、精神的にもそれ以上の負荷は、耐えられなかったので、それ以上感じることをとめてしまったのだが。

それは消えて無くなったのではなかった。
娘に対する言いようもないイライラは、強烈に抑圧した思いが、時々顔を出した結果だった。

山崎さんのエネルギーに包まれながら、あの時、中途半端で引き返した思いを、もう一度さらに深めていった。


 本当の本当に、怖かった。
 逃げ出したかった。


 誰かに助けてほしかった。

 震えがますます止まらなくなった。
 あふれる涙を止める術もない。



震えが絶頂にきたときだろうか・・・突然、光がみえた。

「あれ・・・」

怖い感覚が、ほんとうに突然、終焉を迎えた。
静かな心地が広がっていった。

そして、何も思考が戻ってこない。

あの震えはどこへ行ってしまったのか。


あんなに抵抗していた「恐れ」ととことん向き合い、感じきってしまったら、いつの間にか
素っ気ないほど何もなくなってしまった。

静かな豊かさが広がっていく。これが山崎さんがいう「本来の自分」なのだろうか。
分からないけど、私にとってはそうだと思う。


ステージが上がってしまったとか、一段高い境地に立ったとか、そんな感覚では全くない。むしろ、懐かしい感覚であり、いつも隣にいたような、なじみのあるもののよう。


あのとき、私を引き止めたもの。それは

「子育てが怖い、イヤだと思う、そんな母親」に自分がなることを、私はどうしても許せなかったのだ。

その価値観が、私を抑えこんでしまった。
そんな思いを野放しにしてしまうと、ソレに呑み込まれるんじゃないかと、心のどこかで恐れていたのだ。


しかし、目を背けたかった価値観・思いを、全て解放してみると

全くどうってことなかった。

「子育てがイヤ」「逃げ出したくなる」
そんな思いに乗っ取られることなんて、恐れからくる幻想に過ぎなかった。

「子供を愛せない母親」だけでなく、「子供をこの上なく愛する母親」も含めてだけど、それらは所詮、本来の私ではない。

どちらの価値観とも、自分を引き離してみると、ほの暖かく、いつまでも途切れない愛情が綿々と湧いてくる。
本来の自分、自然に生成される自分は、思考にも、感情にも負荷がかからない。


それが、娘に対する、いや生きとし生けるもの全てに対する、ごく自然な愛情なんだと実感した。


そして、NRTが終わって2日経つ。

もちろん、いつも、いつもそんな自分でいられる訳ではない。
また、本来の自分はこう、と一端決めてしまうと、単なるイメージが増えるだけ。

そこが、ちょっと難しいところなんだけど・・・

しかし、本来の自分を体験するのと、しないのとでは全然違う。
また慌ただしい日常生活の中で、価値観に汚染されたまま右往左往をするんだろうが

帰る場所--故郷がすぐソコにある- それが分かるだけで、随分違う。


私はステージⅠしか受講していないけど、NRTは多くの人に体験してもらいたいなぁと純粋に心から願う、数少ないセミナーであった。

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諦めかけてた フォトリーディング再出発へ

2010年7月28日 水曜日


2010年冒頭に、アミーゴマニュフェストとして、2つの公約を掲げた。

1.英語-「相手の話」を聞き、「自分の意見」を伝える
2.フォトリーディングをマスターする
そのうち、英語学習はコツコツと継続している。
あの時宣言した以上に、今は熱心に続けてるぞぉ。

それに対して、フォトリーディングの方は全くの手付かずであった。

ありがちなことだが、2009年11月に、2日間のフォトリーディング集中講座に参加した直後は、そら、やる気満々だった。

1日1冊、まずは30冊(30日間)、フォトリーディングを続けよう!と、鼻息荒く決意したものだ。

それなのに

今年、2010年度のアミーゴマニュフェストにまで、「マスターするぞ!」と公言したにも関わらず、要領が得ないまま、いつの間にか続かなくなって・・・

結局、昔ながらの読書スタイルにすっかり戻っていた。
まぁ、別にフォトリしなくても普通に読めるんだからイイんだけどね。

そう半ば諦めつつも、何だか釈然としない。

何かが、私を納得させていない。何かが、突き動かそうとしている。

それは

とにかく本を早く多く読みたい! そんな願望より
こうして公言したのに恥ずかしいよーーっという、カッコ悪さよりも

もっと大きな、もっとパワフルなモノである。

それは、未知の世界への扉--というものだろうか。

パラパラとページをめくるだけで、内容が理解できるなんて、ホンマにそんな世界あるの!?

その好奇心を体感してみたいという欲求である。

すっかり醒めていた、フォトリ熱を再燃すべく、お世話になった講師・内方インディさんが最近はじめた「フォトリーディング 2時間再受講クラス」に参加した。

受講後、結果として、またやる気の源に火がついた。

「誤解している人がとても多いけど、
フォトリーディングと普通読みは、非常に相性いいです」

「ぜひ、フォトリーディングと普通読みを併用してください。
フォトリリーディングしてから
その本を普通に読むと、もっと味わい深くなりますよ」


インディさんの言葉で、V字回復した。

そう。私も誤解していたが、特にフォトリーディングをマスターしつつある最中は、普通読みをしてはいけないのかと思っていた。

慣れないうちは、フォトリだと読んだ気にならない。やっぱ、一字一句、文字を追った方が作者と対話している気分にもなるし、その読み方を捨てたくはない。

でも、普通読みを続けている限り、フォトリーディングをマスターできないようだし・・・
そんなジレンマに陥っていた。


が、そうじゃない。二者択一ではなかったんだ。
フォトリーディングと普通の読み方は、実は相互作用するようなのだ。

ならば、やってみようじゃないか!

フォトリーディングを、私のデフォルトな読み方にするかどうかは、その世界を体験してから
考えてみる。

ということで、今年の後半にかけて、このマニュフェスト実現に向けて、精進しまする。

こんな感じでガッツ!

こんな感じでガッツ!



公言したとはいえ、ブログに書きっぱなしで終わると、またいとも簡単に忘却の彼方へ行ってしまう。それでは元の木阿弥だ。

そこで、フォトリーディングした本の報告をTwitterですることにした。

早速、今週月曜日から毎日1冊、フォトリーディングを行い、書籍内容をマインドマップ化したものを、このように写真入りで、Tweetしている。

Gmail仕事術

Gmail仕事術



言葉ではなく 体感でしか理解できない
フォトリーディングの世界はいかがなるものか?


今年末に、「フォトリーディングってねぇ~」と、大いに語れたらいいな!

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私たちが見る夢を変える-チェンジザドリーム・シンポジウム

2010年4月13日 火曜日

幸せになるための ◯◯の法則

こういったノウハウとも言うべきものが、巷では出回っている。
その中身は、「人の悪口を言わない」「いつも感謝の心をもつ」「キレイな言葉を使う」など。

その事自体に全くの異論はないし、人格を高める手助けにはなるだろうな、と思う。

ただ・・・何となく、そこで実現できるという「幸せ」という状態が、間違いとは思わないが、どこか薄っぺらいものに感じて仕方がなかった。

なぜだろう・・・と、何となくモヤモヤしていたものがあるが、あるシンポジウムに参加して、その正体が分かった気がした。

「チェンジザドリーム・シンポジウム」

これはどういうシンポジウムなのか? 公式サイトからの説明文を参考にすると

Pachamama AllianceというアメリカのNPO法人が、南米アマゾンで昔ながらの伝統的な暮らしを守り続けている原住民からの呼びかけに応える形で開発したものだそう。

地球温暖化を含む環境の破壊、人種差別や貧富の格差、先進国を中心とした精神疾患の増加などの問題に対して、主催者が答えを提供するというよりも、一人ひとりが深く考え、自分なりの答えを見つけるきっかけを提供する参加体験型プログラムである。

詳しくはこちら

コーチングトレーニング会社として有名な、CTIジャパン創設者の榎本英剛さんが、日本に紹介したプロブラムでもあり、友人・知人コーチが多数ファシリテーターとして活躍している。彼らから話を漏れ伝えられてたこともあり、前から興味はあった。

今回のシンポジウムは、今の地球の状況を伝えるDVDの鑑賞が2時間と、それを観た感想などを話しあう対話会(1時間強)で構成された。
(正式バージョンの短縮版らしい)

DVDでは、地球の生態系が壊れている現状、欠乏感を土台とする飽くなき消費に明け暮れる先進国の人々と、大量に排出される使い捨てのゴミの山などが映し出されてた。

私は普段、それほどエコに熱心ではなく、正直言って、問題意識も人並みだったと思う。

それでも、DVDを見ながら、私は何度も何度も泣きそうになった。

数百万年の時を経て生き残った動物たち。それが環境破壊が元に、絶滅の危機に追いやられた動物たちを見て、心の奥が嗚咽した。

「かわいそう」とか、そういうレベルの感情ではない。
自分ではどうしようもなく、途方もなく悲しくて仕方がないのだ。

それは顕在意識と繋がってるいつもの自分ではなく、もっともっと奥深い、何かと繋がっているところからの揺さぶりでもあった。

人間に、こんなことをする権利があるんだろうか・・・

こんなことをするために、地球に存在しているのだろうか・・・

もっと、人間には大きな役割があるのではなかろうか。

人生で起こる様々な出来事や学びを通して、自分を高め、周りも尊重しながら、幸せな仲間、コミュニティ、世界を築いていく。
それは素晴らしいことであり、コーチングに携わっていくと、人々からそのようなメッセージを聞くことが多い。

ただそれは、どこかが日々汚されていく土台の上で築く、幸せなんだろうか。

地球のどこかで、動植物が悲鳴をあげ、途上国では搾取が繰り広げられている。
それを、どこか遠くで行われていることと耳を傾けず、自分や周りの幸せを追求する-

それでいいのだろうか。

今のような科学が発達した世の中は、人々に便利さをもたらし、私もその生活を享受している。より便利なものへと突き動かされる気持ちは、私も充分に持っている。

その快適な生活と引換えに、自分たちが住むところ・土台が壊されていく。

その真実が、普段は目を覆われて見えなくとも、絶対に、人間たちの深いところを蝕んでいる。

私たちは繋がっている--この観念的な言葉が、真実味を持って、私に迫ってきた。

CTIジャパン創設者で、10年以上前はコーチングの普及に尽力を尽くした榎本さんが、コーチングから、この活動へとシフトチェンジしたのが、何となく分かるような気がした。

理想を大きく掲げ、日々を共にする家族や仲間を大切にしないのも
周りが豊かになればそれでいいと、世界で起きていることから目を逸らすのも

どちらも、魂は満たされない。
両方大事で、両輪を取り組んでいくことが、真の幸せ、豊かさへの道だと私は思う。

それは、私はどこかで、深いところで分かっていたことだ。
その事を、このシンポジウムで、再認識出来た。

とても貴重な体験だった。
また機会があれば、参加していきたいし、出来ることから、私も取り組んでいきたい。


※ 最後に「私が出来る 小さなこと」の発表を。

消費行動を見直すこと!
安いだけではなく、多少高くても、製造に携わる人々が正当な報酬を得て、
正当な価格が提示されているものを購入する。
全部でなくていいので、少しずつでもフェアトレード品を周りに増やそう、と決意した。


倹約型で、お得大好きな私にとって、これも大きなチャレンジだわっ。

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三毒にこだわらない

2010年3月26日 金曜日

前回の「三毒追放ってどうよ?」 は、多くの反響が寄せられた。

「続きを楽しみにしています・・・」と数人から言ってもらえた。とても嬉しい。

で、勝間和代さんが推奨する三毒追放へのアンチテーゼでもないが・・・
その代わりに、私が取り組もうとしていることは何か?について語ってみる。

それは・・・

「怒り、妬み、愚痴」の無毒化、もしくは弱毒化 である。

言い換えると

「こだわらない」

の一言に尽きる。

書いてみて、自分でもおーーっと仰け反ってしまった。

でも、私には、それしかないかなぁ。

よく人生訓を書いた本などに、「こだわらない」ことの重要性を説いてある。
執着やこだわりが、人生の妨げになるんだと。

以前は「こだわらない」と言われても、よく意味が分からなかった。
今、ようやく、ぼんやりと輪郭がつかめてきた感じだ。

では、怒りも妬みも愚痴にこだわらない状態とは、どういうものを指すのだろう。

私なりの表現でお伝えすると

存在を認めつつ、影響を受けないこと だと思う。

三毒の念が起きても、「あぁ、そんな感情が出てるなぁ」と観察している感じかな。
怒ってもいいし、怒らなくてもいい。

どっちの状態を取ることも「こだわらない」
他人から受けても、ありのままで受け止める、という感じだろうか。

よく赤木が引き合いにだす名作映画、ビューティフル・マインド
では、「こだわらない」境地を巧みに描いている。

ビューティフル・マインド [DVD]


統合失調症を患った天才数学者である主人公は、幻覚に苦しみ続けた。
(ここでは実在しない友達が、幻覚として現れる)

しかし、献身的な妻の支えもあり、社会生活を営めるまで回復し、ノーベル賞を受賞した。
ただ、それは彼が病を克服し、幻覚を観なくなったという訳ではない。

幻覚はずっと現れ続けている。
が、以前と違うのは、彼自身がこだわらなくなったのだ。

その過程の中で、幻覚を追い出そうともしたこともあった。
が、それさえ手放したようだ。
映画のラストは、幻覚の中でみる3人組が彼を見つめている。
「あぁ、いつものお仲間が今日もいるなぁ」と、彼も温かいまなざしを送っている。

そう、コレなのだ。

三毒を代表とする、いわゆる「負」の感情といわれるものとのお付き合い。
私には、コレがフィットする。

いいの、いいの。存在しても。
そして、人間だもの。時には怒ろうが、怒るまいが。
妬むこともあるし、愚痴るときもある。

どっちでもいい。

「怒ってはいけない!」と過度に自戒すると、恐らく私なら、他人にも要求せざるえなくなるだろう。

それでもって、かえって存在を大きくするくらいなら、こだわらない態度を私は選びたい。

そう思う 2010年3月末である。

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三毒追放ってどうよ?

2010年3月23日 火曜日

怒らない、妬まない、愚痴らない
三毒追放と呼ばれるこのスローガンを世に広めているのは、破竹の勢いで活躍中の勝間和代さん。

私は彼女の著作が好きで、半分くらいは読んでいるかなぁ。
↓ 一番最初に出会ったのは、この本。今でも好きな一冊。
効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法

効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法

「へぇ~、こんな風に考える人があるんだぁ~」
彼女の視点は新鮮で、よく驚かされた。初期の著作では特に。

その彼女が、あらゆる著作でお伝えしているのが、この三毒追放であるが。

彼女がなぜ、三毒追放をより多くの人にオススメするのかを、著作でもページを割いて、丁寧に説明している。

その理由には、全く反論がない。恐らくその通りだろう。

・・・しかし、私はやや違和感を感じている。


声高に反論するほどの違和感ではないが・・・
それって、どうよ?という程度に小骨が刺さってる。



なぜ、私が違和感を感じているのか・・・。

一言でいうと、こうだ。
「怒り、妬み、愚痴を、毒に指定するのって、どうよ?」


これらの3つが及ぼす作用は、私にだってよく分かる。時には身を滅ぼしかねない。


しかし、「毒だーー」といって、目の敵にするのはどうだろうか?


私が危惧しているのは、「毒扱い」にすることによって、余計にそれら3つのパワーを増大させてしまっている気がすることである。

なぜなら、「毒だーー」「追放せよーーー」と号令するほどの存在に、祭りあげてしまっているからだ。


怒りや妬み、愚痴の奥には、悲しみが横たわっている。
思い通りにいかないからといって、子供のようにワーンと泣くわけにいかない。
(大人のたしなみとして・・・)

だから、代替手段として、この3つを自然に用いているのだ。
言い換えれば、自分が悲しみを感じなくて済むように、守ってくれた感情や行為でもある。

それを追い立てるように追放することに、私は疑問を感じる。


といっても、やはり「怒り、妬み、愚痴」は、人生を好転する方向には持っていかない。
だから、毒だと言われても仕方がない所以はある。

では、どうしたらいいのか・・・


私は三毒追放の代わりに、取り組んでみようと思っていることがある。

それには、かなり時間はかかる。人生をかけて、といっても過言ではないくらいに。


ただ・・・文章でうまく伝えられるかどうか分からないが、2010年現在の自分が、表現できる範囲でお伝えしていこうと思う。


メチャ長くなるので、続きは次回に・・・

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ワールドカフェは、現在の縮図

2010年2月19日 金曜日

2/17に、ファインネットワールド共催という形で、子育てについて語り合うワールドカフェを昨日開催した。平日昼間、しかもワールドカフェは関西であまり知られていないのに、15名前後の参加者に来ていただけた。

今回は共催という立場だったものの、実際はいち参加者としてグループに入った。
私がワールドカフェを体験するのは、今回で2回目である。

主催者としての感想はまた別のところにあるが、いち参加者としての感想は、2回ともほぼ同じだった。

今回は、参加者という視点から得た気づきと、私が感じたワールドカフェに秘められた可能性について話す。

・・とその前に、ワールドカフェとは何か?ということから、ごくごく大雑把に説明しよう。
(あくまでも、私が体験したワールドカフェについての説明である)


あるテーマについて、4人一組で話しあう。その後、メンバーを入れ変えて、語り合う。これを3~4回繰り返す。

メンバーを変えることによって、同じテーマに対する様々な視点や気づきを得ることが出来るのだ。

で、全体のファシリテーターが一人いる。ファシリテーターの役割は、ただただ場を見守るだけで、グループで何が起きようと、基本的には介入しないのがスタンスである。


で、そんなワールドカフェを受けてみて、どうだったか。

子育てについて語り、色々な人の意見を聞くことにより、自分の囚われに気づくことが出来たのが嬉しかった。

アンケートでも、同じように気づきを得たり、子供への愛情を再認識できたという意見を頂けた。

ワールドカフェは、テーマに対する答えを教える場ではない。また、決まった答えや結論が出るというものでもない。

非常に自主性を重んじているので、参加者一人ひとり、得たものや感じたものがかなり違ってくる。

で、ここがミソなのだ。

普通のセミナーなら、あるテーマ、今回なら子育てに対する講師ならではの考え方や答えがあり、それを受講生に持って帰ってもらうことを目的とする。

セミナー中に、参加者同士の話し合いが持たれることも多いが、そのテーマについてしっかりと話し合えるよう、細心の注意を払う。時には、講師がグループ内の調整役に回る。

講師が場を調整し、得られるものを明確に提示することで、程度の差はあれど、受講生は、「あぁ、これが学べた。気づけた」という成果物を得ることができる。

一種、すっきり感を得られるというべきかな。

それに対して、ワールドカフェでは、そういうすっきり感を私は感じなかった。

なぜなら、話し合いは完全に各グループに委ねられ、基本的には何が起きてもOKというスタンスだったからだ。
この点は、ワールドカフェのファシリテーターにもよって違うかもしれないが・・・

ワールドカフェを受講する前、参加者同士の活発な意見交流で、気づきが気づきを促進する場を想像していた。
そういう場面も多々あったのだが、うまくいく場面だけではなかった。

実際、こんなことが、私が体験したワールドカフェのグループ内で起こっていた。
  • 一人が独占して話す。または、殆ど発言しない人がいた。
  • グループ内の話し合いがテーマから逸れた。戻そうとしたが、また逸れていく。
  • 単なる雑談に興じてしまった。
  • テーマに対する問いが不適切という議論が始まってしまった。
ワールドカフェを終えて、私自身、色々と感じる事が出てきた。

話し合いが機能するのは、メンバーによるところが大きいのでないか。
そして、ファシリテーターがあまりに関与しないと、参加者の満足度はまちまちではなかろうかと。

そんな疑問を、ファシリテーターにぶつけてみた。が、「それでOK」らしい。

話が脱線するのは決して悪い方向ではないし、単なる雑談にふけるグループがいたとしても、ワールドカフェ的には、それも一つの風景と捉えることができるそう。

なるほど。
でも、うーーん。それって、どうよ。

数年間、公開セミナーを主催し続け、常に受講生が予想以上の気づきや学びを得てもらいたいとセミナー設計し続けた身には、ちょっと理解しづらいことが正直あった。

私がワールドカフェの創始者なら、「話し合いによって、このレベルのことまでは気づいてもらいたい」とどうしても設計してしまう。ファシリテーターによって、場を介入してしまうだろう。

そういう意味で、ワールドカフェには、なんかモヤっとしたものが残った。
「単なる話し合いと、何が違うのかな・・・」と

しかし、ふとワールドカフェを俯瞰して考えてみた。
全く違う視点から見たとき、全く違う風景が見えることに気がついた。



それは・・・

一人のファシリテーターがいて、周りを4~5人のテーブルが多数囲んでいる。
各テーブルはそれぞれの話し合いに興じてる。まるで、バラバラの音を鳴らしつつ、それでいて、調和がとれている感じもするオーケストラのよう。

上からみると、曼荼羅みたいかもしれない。

そこで、ファシリテーターは何をしているのか。
「私はジャッジはしない。ただただ観察しているだけ。」

あるフレーズが浮かんだ。
名著「神との対話」に出てくる「神」が著者に伝えたメッセージである。

そう。ファシリテーターが、その場を見守る神のような存在としたならば、
グループというのは、地球上に存在する各国・地域・コミュニティのようなものではなかろうか、と。

(予め、お断りを。神と一言でいえども、人によってそれぞれの観があると思うが、
私がここで思い起こす”神”は、この著書に出てくる”神”である)

私たちが住む地球には、様々な人種がいて、色々な考え方がある。
安全な場で友人と語り合っている場所もあれば、紛争が絶えない場所もある。

それぞれが世界をどう感じるかは、今、関わっている人たちとの関係によって違うし、環境にもよる。輪の中にいる人たちは、めいっぱい楽しんでいる人もいれば、やや不満を持つ人達もいる。

それは、ある意味、現実社会の姿だと思う。

その縮図を、私個人は、ワールドカフェに感じた。


ワールドカフェは、全員同じ成果を得ることを求めない、受け取り方もそれぞれの感じ方に委ねている。
確かに、通常のセミナーに比べると、すっきり感は得にくいかもしれない。が、逆にそれを心から受け入れることが、社会を、そして多様な人格からなる自分を受け入れることに繋がらないだろうか。

ワールドカフェの創設者の思い、意図がそこにあるかどうかは分からない。

が、あくまでも私にとってだが、ワールドカフェに参加し続ける、そして開催を続ける意義があるとしたら、そこである。

そんな思いを強くした。ワールドカフェの可能性に、ますます惹かれている。

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