‘映画・テレビ’ カテゴリーのアーカイブ

赦しが世界を変える ~インビクタス

2010年9月6日 月曜日

「Strongly recomend, Akemi!」

我がEnglish teacher、キースから一押しで薦められたこの作品。
以前から気になってたので早く観たかったが、ようやくDVDで観ることが出来た。

インビクタス
invictus

もーーーっ。

映画で、ここまで大泣きしたのは、久しぶり。

魂が震えるとは、こういうことか・・・


それほどまでに、マンデラ氏の高貴な精神に感銘した。

この映画で、マンデラ氏を演じたのは、常にイイ味を出し続ける名優のモーガン・フリーマン。マンデラ氏の滲み出るような誠実で大きな人柄を、実に演じきっていた。

本人の魂が乗り移ったかのごとく!

準主役のマット・デイモンも見事だった。


今回の映画で伝えたかったことは、マット・デイモン扮するピナールのセリフに多々代弁されている。

白人・黒人の壁を超えて、国民一つになる そんな願いが託されたラクビー・ワールドカップ決勝戦直前。

大きな窓から見える景色を見下ろしながら、ピナールはこうつぶやく。

『30年近くも独房に入れられて、どうして人を赦せる心を持てるのか』

これは、私の心に深く突き刺さった。


昔話題になった映画「遠い夜明け」でも描かれていたように、南アフリカ共和国で、黒人は長年、白人の下で虐げられていた。自由を奪われていた。

マンデラ氏自身も投獄され、27年にも渡って、収容所で過ごすハメになった。

気の長くなる年月・・・灰色に囲まれた狭い独房で自由を奪われ続けた末、ようやく釈放され、大統領にまで就任した。

今までの義憤を晴らすことが出来る立場にまで昇りつめたが・・・


それでも、彼は赦しの道を選んだのだ。

過去は過去。
この国にとって、今、何が必要なのか・・・

自我を超えて、自分が課せられた役割を、忠実に果たそうとしていた。


アパルトヘイト終結により、この国は否が応でも変わる。
今まで支配側に立っていた白人は、黒人たちの逆襲に怯えていたようだ。

しかし、それは黒人が解放されたことは同時に、白人が解放されたことも意味する。

隣りに住む人が抑圧されている社会は、抑圧している側(白人)にとっても、本当の意味で良い訳はない。

だから、支配-隷属のスイッチが切り替わっただけでは、誰も救われない。黒人にとっても・・・

マンデラ氏は、祖国が善い場所に変わるように・・・
赦しの心で、白人と黒人が手をとりあい、この国を一つにしたいと願ったのだ。


マンデラ氏の大きな赦しは、少しずつ周りに広がっていった。

まず、ピナール(マット・デイモン)を変えた。
マンデラ氏への感銘と共に、自分たちは今や、ラクビー選手以上の存在であると悟った。

そして、彼が率いるラクビーチームをも変えた。

invictus_2
今、このチームがワールドカップで優勝することは、「天命だ!」とピナールが叫んだ。
最後の力を振り絞って、皆が戦い抜く。


運命の女神が微笑んだ。

映画のラストで、肌の色の違いを超え、人間同士が繋がり始める姿を観たとき・・・
涙が止まらなかった。

赦しほど、人を変えていく魔法はない。


「I Have a Dream 」

マンデラ氏の願いは
昔、銃弾に倒れたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏が夢見てた思いに重なる。


これは南アフリカ共和国だけの話ではない。

今、ダイバーシティの重要性が問われているが、様々な立場や思想を理解しあい、つながりあっていく・・・

 それが、どれほど私たち人間の歓びにつながっていくのか・・・

  そして、この地球を善き場所へと導いてゆく・・・

それこそが、人間の・・・いや、人類が深い、深いところで望んでいることではなかろうか。

このことを、私はどこかで・・・深いところでは分かっている 分かっていたんだと
インビクタスを通して、私の心をノックした。


そして、
誰の心の中にも、マンデラが体現した「赦しの心」、その種が埋められていることも。

あぁ、ブログ書いているだけで、また涙腺が緩んできた・・・




最後に、マンデラ氏が長い獄中生活の間、心の糧にしていた、ウィリアム・アーネスト・ヘンリー氏の詩を紹介する。

私を覆う漆黒の闇
鉄格子にひそむ奈落の闇
私は あらゆる神に感謝する
我が魂が征服されぬことを

無惨な状況においてさえ
私は ひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ 血を流しても
決して屈服しない

激しい怒りと涙の彼方に
恐ろしい死が浮かび上がる
だが 長きにわたる 脅しを受けてなお
私は何ひとつ 恐れはしない

門が いかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者
私が魂の指揮官


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インセプションの番外な感想(ネタバレほぼなし)

2010年9月3日 金曜日

観たよ。
あまりに友人たちが絶賛するもんだから。

inception
「マトリックスを超えた!」
「あんなに深い映画は観たことがない」

もう、皆が皆、手放しで賞賛してる。
が、アクションシーンが多いって聞いてたので、なかなか腰が上がらなかったんだけどね。




映画館に行くのも久しぶりかな。

大迫力のスクリーンに映し出されるのは、円熟味が増して来たディカプリオ。

ディカプリオ

ディカプリオ



目が離せない展開の果て、どちらとも取れるラストに、ため息が出た。

ひやぁ~、確かに深い。深いのは分かる。

が、その深みが、私にはどうも掴みきれてない感じがして仕方が無かった。
モヤモヤな、消化不良感が消えないまま、自宅に戻った。

ふと気がついて、私の友人のイズンがブログに書いてた、インセプションの考察 を読んでみた。

そうかぁ~ なるほどぉ~
非常に深い考察ぶりに恐れいった。

彼の思考場をお借りしたおかげで、モヤモヤの断片にあったものが統合された。
(この映画を観た人には、非常にオススメな考察です! こちらからどうぞ

なので今回は、本編そのもののではなく、本編以外で感じたことを書いてみる。




インセプション 感想 番外編


1.アクションシーン多すぎ。何とかならないか。

「マトリックス」もそうだけど、人間存在の根源的なことや深層心理を描くのに、なぜ、あんなにアクションシーンが必要なんだろうか・・・

確かにドンパチがあると、ストーリーとして、メリハリが出るのは理解できる。

が、アクション嫌いの私には、苦痛で仕方がない。

インセプションにしても、深層心理からの抵抗を、マシンガンで暗に表現しているは分かる。が、何もあんなに激しく、銃撃しなくてもいいんじゃないか。

ボール投げじゃあダメなのか・・・(迫力に欠けるか(笑))

そうだ、この映画は潜在意識が大きなテーマだ。

で、ただでさえ観る人の潜在意識が開きやすくなってる中で、戦闘シーンが繰り返されるのって・・・
悪影響を及ぼしそうな気がするんだけど・・・そんなこと考えるの、私だけかなぁ。

そうそう、もう一つ。

映画は、最高のプロバガンダという話を聞いたことがある。

その国家の文化や価値観を刷り込む(まさにインセプションね)のに、映画は最高の洗脳マシンだと。

ハリウッド映画はまさにそう!という専門家もいるようだ。

ハリウッド映画は、やたらめったら派手な銃撃戦のシーンが多用される・・・それって何か裏の意図があるんだろうか?と、変に勘ぐってしまう。

プロバガンダかどうかは別として、巨大スクリーンに大音量、そこで得る強烈な感覚って、潜在意識には影響するよね。ちゃっかりと、映画を観た翌日の夢に、インセプションが登場した(笑)

あと観終わった後、無性にお肉が食べたくて仕方がなくなったのは、ただの偶然?(関係ないか)


2 KEN WATANABE is VERY EXCELLENT!

謙さん

謙さん


言わずも知れた日本の名俳優、渡辺謙が準主役として出演している。

まぁ、その存在感がとてもエクセレント。

以前から、ハリウッド映画に日本人俳優が出演することはたびたびあった。

が、それ自体が栄えあることでありすぎたか、いかにも「日本から来た、選ばれし俳優」という雰囲気を醸し出す俳優が多かった。

が、この映画の渡辺謙は違う。

ハリウッドの一俳優として、堂々たる風格がある。場に馴染んでいるというか。

あのスターオーラあふれるディカプリオと対峙しても、全然引けを取らない。

本当に、世界が誇る俳優になったんだなぁ~と感慨深かった。
いつかは日本人初でオスカー獲得するかも。





スクリーンに釘つけになりながら、頭の端っこでこんなこと考えていた私である。

あぁ、今度はDVDでゆっくり鑑賞しようっと!

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死は、生を諦めた結果ではない-私の中のあなた

2010年5月18日 火曜日

※ネタバレ注意報 発令中(笑)

久々にDVDを借りて観た。
昨年ロードショーされた「私の中のあなた」
私の中のあなた [DVD]

主役は、キュートな笑顔が魅力の女優・キャメロン・ディアス。

彼女が出演した15年以上前の出世作「マスク」の頃から観ている私は
あぁ、お母さん役がぴったりくる年齢になったのね~と、感慨深いものがある。

さて、この「私の中のあなた」

この映画は、家族愛もメインテーマになっていて、子供を持つ母親としても考えさせられるところが多かったが、このブログではあえてソコではなく、「死と生」の観点で感じたことを、お伝えしよう。

(また、キャメロン・ディアスに関する記述は、私が感情移入したものであって、
人によっては解釈が違うことも、冒頭でお断りしておく)

ざくっと、簡単にあらすじをお伝えすると。




家族構成は、父・母と男1人、女2人の合計5人。
姉のケイトは、生まれてからずっと病気を抱えていた。


母親であるキャメロン・ディアスは、弁護士というキャリアを捨てて、ケイトの治療に専念する。

が、やがて白血病と診断され、しかも腎臓が機能しなくなったケイト。


妹アナからの臓器提供が無ければ、助かる見込みがない。
しかし、それを妹が拒否して、裁判を起こすことになる・・・






当初は5歳まで生存できたら奇跡だと言われていたケイトだが、家族の献身もあり、その年齢を超えて、生き続けることが出来た。

しかし、その成功体験とも言うべきものがそうさせたのか、

ケイトを死なせないこと-それが彼女の絶対使命へと変わってしまったのだ。

自分の全てをケイトに捧げ、彼女の命を守ってきた-

それなのに、ケイトが死んでしまっては・・・
自分がこれまで捧げてきたものは、全てが無になってしまうのだろうか。

少しでも可能性があるなら、決して諦めてはいけない。
自分が諦めてしまえば、ケイトの人生は終わってしまう・・・

そんな執着に似た思いを、私は感じた。

子供に生き続けて欲しいと願う親心もよく分かるのだが、一方で、ケイトはどうなのだろうか?

彼女も生き続けていたかったのか?

実は、彼女は既に「死ぬ」ことを覚悟していたのだ。
それは生きるのが辛いからとか、治療がイヤだからといった 逃避を目的ではなく、心静かに、死を受け入れていたのだ。

だけど、母親は死なせてくれない・・・死を受け入れてくれないことを嘆いていた。
彼女の気持ちも伝わってきて、私の胸は痛んだ。

「死は、生を諦めた結果ではない」

この言葉が、私の中に迫ってきた。

「病気に負けた」という表現は、日常的によく聞くが、本当にそうなのだろうか??

死は、死である。それに対して、私たちは何の言葉も持てない。

が、生きることを諦めた末に訪れる世界ではない。

現代医療を駆使しても治癒できなかったとしても、それは決して
「病気に負けた結果」ではないし、「病魔を克服出来なかった子供」でもない。

生を全て受け入れることは、死も含めて丸ごと受け入れることである。

ケイトは、母親に「死を含めた、彼女の生」を、全て受け入れて欲しかったのではなかろうか。

私も子供を持つ母親なので、彼女のような立場に立たされたら、どうなるか分からない。きっと、こんな風に冷静には思えない。
なりふり構わず、子供を守り抜こうと思うかもしれない。

それでも、この映画の最後に、母親がケイトの死を受け入れたことに、心から安らぎを感じた。

ケイトは知っていたのではなかろうか。
自分の死を嘆くのではなく、受け入れることが、愛する家族のそれからに光をもたらすことを。

「生とは何か?」「死とは何か?」
私にとっては、そんなことを考えるきっかけとなった良い作品だった。

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