クレームのコスト

2010年7月3日

先日、ネットショップで、友人の出産祝いを注文した。
早く届けたくて、注文した日にネットで振込んだ。あとは、「いつものように」配達してくれるを待つばかりだと思っていた。

それだけに、ネットショップから届いたメールに、軽く動揺した。

「入金確認しましたが、ラッピング代◯◯円が含まれていません。
至急、残金をお振込み頂かないと、発送できません。」

えーーっ、私、何か見落としたのかなぁ~。
申込時に届いたショップからの自動返信メールを検索し、再度確認した。
そこには、別途かかるラッピング代についての記載は一切なく、商品代と送料を合算した金額が、合計金額欄に記載されていた。

いつものクセで、ショップからのメールに書かれてた合計金額を、そのまま振り込んだのだ。

そう言われてみれば、ショッピングカートの操作画面で、ラッピング代についての記載があったような気がした。
が、いちいち覚えてなくても、また自動返信メールで、ラッピング代をONした金額を請求してくれろうだろうと、すっかり思い込んでいた。

その件でネットショップに問い合わせしたところ、「サイトにも掲載してますよ」と、つれない返事。

まるで、こちらだけに非があるかのような、あの書き方はナニ?

さて、それから、どうしようか。
考えられる、3つの対応をあげてみた。

  1. クレームという形になるが、まずは、ネットショップにこちらの意見を伝える。
  2. クレーム付ける時間も、また別のショップをさがす時間もないので、スゴスゴと残金を払う。
  3. こんな失礼な対応のショップで購入するのは不本意だ。返金してもらう。
私は苦悶した。

本来、人にクレームを伝えるのは、あまり好きではない。

伝えるのに、めちゃめちゃエネルギーを消費する。
さらに、時間がもったいないし、今回は見過ごそうかとも思った。(つまり、2ね)

でも考えあぐねた結果・・・
1を選択することにした。

なぜなら・・・

私どももネットで物販を行っているし、ショッピングカートも設置していた。
同業者らしき立場から、見て見ぬふりが出来なかったのだ。

私どもの経験から言えるのは、お客様はネットショップ側が提示する別料金の仕組みを、そんなには覚えていない。
これは悪気があるのではなく、お客様も忙しく、いちいち覚えていられないからだ。

だから、お客様の負担が少なく済むように、お客様側でいちいち別料金を計算して振り込まずに済むように、合計金額を、販売側で合算しておくべきだと思う。

お客様にとっても、不足費用を再度振り込むことは、再度、振込手数料を負担することを意味する。それを未然に防ぐ手立ては、販売側で考えるべきだろう。

自動返信メールにて、追加料金を記載していなかったことに悪びれもなく、「お客様がきちんと覚えておくべき」と信じて疑わない態度に、一石を投じてみたくなったのだ。

良心的なネットショップなら、お客様の声に真摯に傾けるだろう。
その上で、対策を練ってもらった方が、彼らの今後のためかもしれない・・・そんな親心も少しだけあった。

(あっ、それはかっこよく言い過ぎで、お怒りの気持ちも強いですぞーーー)

その事を、メールで冷静に説明してみようと、書いては消してを繰り返した。
案の定、時間がめちゃくちゃかかった。

やっと、書き上げたメールを送信する前に、また様々な気持ちがよぎった。

熱意を込めて(怒りもこめてるけど(苦笑))伝えたつもりだが、結局は意図が伝わらず、骨折り損になるかもしれない。
相手には「モンスター」扱いにされるかもしれない。

はぁ、かかった時間のコストを考えると
金持ち、喧嘩せず・・・ってよく言ったもんだなぁ。


が、せっかく書いたんだし・・・と、送信ボタンを押したのだ。

で、事の顛末はというと・・・私が伝えたクレームに関する、ネットショップ側の返答は一切なかった。

その代わりかどうかは分からないが、別途料金のラッピング代の請求がうやむやになったまま、「商品発送のお知らせ」が届いた。

うーん、何だか伝わったのか、モンスター扱い?にされたのかさっぱり分からないが、これ以上の追求はしない。

ただ、他人事とは思えないことでもあった。
常に、お客様の立場に立っているつもりが、長くやっていると、「これくらいは、分かってくれるだろう」という甘えがどうしても出てきてしまう。

他山の石として、よい教訓を頂いた。

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「自由に話して下さい」の不自由さ

2010年6月25日

ブログでもたびたびお伝えしている通り、最近の私はすっかり「対話」に目覚めている。
なので、可能な限り、あちこちの対話の場(主にワールドカフェ)に参加し、自らも対話の会を催したりしている。

こういった参加者が主体的に話す対話の場では、参加者が対話を始める前に、ファシリテーターが簡単にその会の趣旨や、注意点(一人が長く話しすぎないように)などを話すことが多い。

その際に、ファシリテーターが、何気なくよく使う言葉がある。

「何でも自由に話して下さい」

この言葉。私も対話の場を主宰する際には、よく使う。

これは、上手に話さないといけないとか、そういう事は気にせずに、自分が感じていることをそのまま言葉に出して下さいね、というファシリテーターからのメッセージであり、温かい思いから発せられることが多い。

自分が感じるままに、自由に話が出来る。
自分の内側からほとばしるようなことが語れる・・・そんな活発な対話の場を想像しがちだが、果たしてそうだろうか?

もちろん、そうなるケースもあるが、停滞してしまうケースも実は多々経験してきた。

「何でも話していいはずなのに、何も話すことが無くなった」という体験を、何度かしてきた。自分の主宰分も含めて。

それはナゼだろう・・・自分なりに色々と探ってみたところ、改めて感じたことがある。


「何でも自由に話す」ということが、いかに難しいかということを。

なぜなら、この「自由に」ということが、意外とクセ者であるからだ。
自由にと言っておきながらも、では全くの制限なく、何でも話していい場なのか?と言われると、そうではない。

そこには、ファシリテーターが漠然と意図している「自由」の範疇がある。
参加者も、それは漠然と察している。

参加者なりに、その場の空気、ファシリテーターの意図を探りながらも、「その場で了承してもらえるだろう”自由”」の範疇で話すことになる。

「自由に話す」と言われると、ある意味分かったような気になるが、実は人によって、定義もイメージも全く違う。

  • ある人は、普段、職場の人とは話せないディープな会話(哲学的やスピリッチャルなど)を「自由に」話したいと思う。
  • またある人は、特に話したいことはないけど、何でも話せる場だったら、日常の憂さでも「自由に」話そうかと思う。
  • またある人は・・・
という風に、「自由に話したい内容」の中に、何が入るのかは人によって違うのだ。

その参加者がおぼろげにでも感じていた「話したかったこと」が話せる場になればいいが、対話相手との流れにより、そうはならないことも多い。

ただの雑談で終わったなぁ・・・そう感じたことも正直あった。

例え、雑談に終わろうとも、その場で生まれたものを大切にしたい。
主宰者がそのこと自体に意義を感じていたら、それでOKだと思う。


しかし、「こんな対話が行われる場になれば・・」

漠然とでも、主宰者側にもそんな意図や願いがあるならば、「何でも自由に」で、参加者の意図に任せるだけの形ではなく、「ここでは、どんな対話が行われる場なのか」を、もしくはそこでの対話のルールを明確にしておいた方がいいのではないだろうか。

主宰者の意図や、そこで行われるべき「対話のルール」を想定することは、ある意味では対話の不自由さを感じさせるかもしれない。

しかし、「自由に話す」ということ自体も、結局は「自由らしきもの」の枠組みに入れるということである。

どの道、枠組みに入ってしまうならば、自分はどの枠組みを選ぶだろうか。

いずれにせよ、主宰者が実現した対話の場を明確にし、それに従って対話を進めてもらうようにした方が、参加者にとっても、かえって負担が軽くなるのではないだろうか。


「何でも自由」というのは、かえって制限が加えられるということを実感する、今日この頃である。

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私が結婚に追い込みました(笑)

2010年6月17日

最近、シリアスなテーマが続いてたので、今回はライトでウフフなネタを。

『一応、結婚の話は出てるんだけど・・・いつ、結婚するんかなぁ~?
本当にするのかなぁ~、分からなくてぇ』

先日、久々にランチを一緒にした友人が、笑いながらこう語った。

両親にお互いを紹介しているし、お互いにその気はあるのは間違いないが、ソレ以上の進展はないそうだ。

私はパスタをほおばりながら、思わず口走ってしまった。

『そんなん、どっちかが押し切らないと、決まらないでぇぇ~』

そう。これは、経験から言ったセリフなのだ。


あれは、もう9年前。

「結婚しようか」
付き合い始めて数ヶ月で、彼はプロポーズしてくれた。
あぁ、天にも昇る気持ちになった。ブラボー♪♪

このまま両親への紹介、顔合わせ、式場決定など、コトがスムーズに運んでいくものだと、その時点では信じていた。

ゼクシィまで買っちゃったよう。

・・・なのに、それから数ヶ月、何も進展が無かった。

彼の気が変わったという訳ではなさそうだが、「じゃあ、いつ?」と尋ねると、曖昧な返事で、はっきりとしない。

放置プレイされてしまったのだ。

「なんか、結婚を急かしたら、彼にプレッシャー与えるかもしれないしぃ~。
それって、なんか重くない?やっぱ、その気になるまで待とうか」

たぶん、20代の私だったら、妙なプライドもあったりして、彼の前で余裕な素振りをしてたかもしれない。

「別にぃ、結婚焦ってないしぃ、もっとしたいことあるしぃ」

が、30代に突入していたからかどうか分からないが、宙ぶらりんを許容する気にはなれなかった。

「だって、結婚したいじゃん! それが何か?」
ある意味、開き直った自分になっていたのだ。


ある日、思い切って、問い詰めてみた。

『なぁ、いつ結婚するの? そろそろはっきり決めようよ』

『いや、俺はまだ独立して間がないし、安定してから考えるわ』

なにぃ~!!
私はブチ切れた。

『あなたの仕事って、自営業って、いつ安定するの? 一生安定せぇへんのとちゃう?!!!』

ウググ。彼は、次の言葉が出なかった。

なーんか、追い詰めた感じもしたが、
結果的に、このセリフがシュートを放ったようだ。

「そうやなぁ~、
 自分の仕事は確かに、一生安泰ってことはないなぁ~。」

彼は覚悟を決めたようだ。
その後まもなく、私の家に挨拶に来てくれることを、ついに承諾した。

それからは、とんとん拍子にコトが進み、半年後に鐘を鳴らすことが出来た。


この4月で結婚8年目を迎えたが、あの時、私が曖昧を認めていたら、「現在」は変わっていたかもしれない。

ゴールインはさらに先だったかもしれないし、立ち消えになった可能性すらある。

全てのケースがこのような結果になるかどうかは別として、私の場合は、素直に自分の欲求を伝えて良かったと思う。

周りの友人たちをみていても、女性が結婚を押し切るケースの方が多いかな

なぜだろう・・・??

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祈りのコーチング

2010年6月14日

先週金曜日、コーチングの会社CTIジャパンが大阪で開催した「対話の会」に参加した。

これは、今流行りのワールドカフェの形式を使って、これからのコーチングについて、集まったメンバーで話しあうという趣旨である。

ファシリテーターは、CTIジャパンに復帰した榎本英剛さん。

彼は冒頭で、対話の呼び水として、自分の思いを語り始めた。

なぜ、コーチングの世界に復帰しようと決めたのか
数年間、外側からみたコーチング業界を、彼はどんな風に観ていたか。


などなど。
彼の誠実な言葉、静かなエネルギーに触れ、私の中で何かが動いた。


そして、いよいよワールドカフェが始まる。
榎本さんから、一つの問いが提示された。

各テーブルは4名前後だが、話すメンバーを変えながら、榎本さんからの問いについて話しあった。

ワールドカフェの中で、皆さんの考えや意見を浴びながら、私の中で、色々と化学反応が起こった。

そして、ワールドカフェの3ラウンド目。
私はあるキーワードに、目が奪われた。

「祈り」

改めて、そうだと感じた。

コーチングは、祈りだということ。

コーチングという対話を通して、クライアントは自己の内側に深く堀下がっていく。
それによって、結果的に、クライアントに変容をもたらすかもしれない。

が、それはあくまでも「結果的に」である。
コーチなりの人事を尽くして、あとは委ねるしかないと、私は思う。

クライアントの変容をサポートするために、コーチが出来ることは

安全な場を確保すること
青虫がさなぎを経て、蝶になるように
さなぎのような安全な場を創って、クライアントが変容を見守っていくこと

そして・・・祈ること

究極的には、ソレしかないのでは。

 「クライアントに、良きことが起こりますように・・・」

祈りの言葉は、こんな表現かもしれない。

しかし、コーチが自分の価値観・枠組みの中からの「良きことを」と願うものでは決してない。自分の価値観を手放した、あるいは一旦、横に置いた上で

汝が汝でありますように・・・

そんな、ピュアな気持ちからの祈りだと思う。


マザー・テレサのような活動であっても、コーチングであっても、その他どんな仕事であっても、究極的には全て、「祈り」に通じるのではなかろうか。

そんなことを感じた、CTI対話の会であった。


最後に、ちょっと本題からは外れるが。
いみじくも、榎本さんはこの会の最後に、こう語りかけた。

「これからは、対話が大事です。
私たちもこういった対話の会を、これからも開催しようと思ってますし
皆さんもぜひ、自分の周りで対話の場を設けてください」

まぁ、榎本さんっ、あなたまで!
私も対話の会をやり始めてまっせ! と心の中で、関西弁突っ込みを行ったが。

去年から今年に入ってだろうか、対話の重要性があちこちで問われ、
対話の場、対話の機会が、全国各地で同時多発的に行われているようだ。

対話というものを通して、人々は何かを希求している・・・そんな息吹を感じさせる今日この頃である。


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もしも命が無限だとしたら・・・

2010年6月9日

昨日のブログで、「もしも命があと一年・・・一週間だったら?」という問いを立ててみたが、
偶然にも、私の友人がブログで、真逆の問いを発していた。

「もしも今の肉体のままで、命が無限だったら、何をするでしょうか?」

彼女の問いは上記そのものではないが、私はこのように解釈し、改めて思索にふけってみた。

命に制限を加えての問いはよく見かける。
が、無制限になったとしたら・・・という問いは、あまり見かけたことがない。

うーん、逆に制限が無くなったら、何をしたいかな~。
この問いに対する、明確な答えは私の中でまた出てきていない。

が、もしこの肉体のままで、不老不死になったとしたら・・・
これは人間の存在を、根本から揺るがすものではなかろうか。


私たち人間は、地球上の生物といってもいいだろうか、命には限りがあるという大前提で生きている。

自分たちの中にある様々な考えや思想を取り外しても、この大前提だけは動かしもない真実とされている。

が、当たり前すぎて、抵抗の余地もなかった、この大前提が無くなってしまったら
ある時を境に、命の制限が無くなってしまったら・・・

そんな人類史上、未曾有の大転換が起こってしまったら、この人間社会はどうなるのだろう??

だって、社会の仕組み、思想の根本背景からして、「人はいつか死ぬ」というものが組み込まれている。そこも、根本的に組み替えていく必要がでるだろう。

また、いつかは死ぬことを前提とした、「よりよく生きるには?」の問いが
「よりよく生き続けるには?」という問いに転換される。

改めて、問う。
「もしも今の肉体のままで(健康状態も良好なまま)、命が無限だったら・・・・」

今、心に思う夢に向かって邁進し、かなりの時間を経て叶う人もいるだろう。

もっとも、独裁者となって、世界征服も出来るかもしれない。

しかし、成し遂げられた先にも、まだ人生が脈々と続いていく・・・となったとき、どうなんだろう??


 人は幸せを感じ続けることが出来るのだろうか?

 人生に飽きることなく、生き続けることが出来るのだろうか?


・・・これも、私には答えがない。思考実験のようなものだから。

ただ、何となく思うことがある。
恐らくエゴを満たし続けるだけでは、幸せを感じながら、膨大な時間を生き続けるのは難しいだろう。

いいかげん、飽きてくるような気がするなぁ。
怠惰になるにもいいけど、それでも時間が有り余る。

そうなると、自分の境地も別の次元にいかなあかん!ということで、悟りとかに自然と向かっていくかもしれないね。

今の私たちの多くは、命の制限を感じたとき、生を輝かそうという動きになる。
逆に、命が無制限になっても、今とは別の形で、生を輝かさざるえないかもしれないなぁ。

とまぁ、とりとめもなく、結論もない話となったが。
いつもとは違う頭が刺激されて、面白い機会となった。

これからも、折をみて、考えてみようかな。

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私たちに明日の保証はない

2010年6月8日

先日、知人が急逝した。
この一報を聞いたとき、頭が真っ白になった。そして叫んだ。

「何で?」

後になって、心不全だと聞いた。

私は一度しかお会いしたことがなかったが、マイミクだったり、Twitterでフォローしあったりで、何かしらの繋がりを感じていた人だった。

衝撃的だった。

それと同時に、改めて思い知らされた。

明日の保証が無い・・・
私たち人間は誰一人として。


昔と違い、死を身近に感じる機会が少ない現在。
心臓の鼓動が、脈々と続くような錯覚すら覚えてしまう。

来年も、再来年も当たり前のように訪れることを前提に、コトを進めようとするが。

「命があと1年だったら・・・1ヶ月だったら・・・あなたは何をしますか?」

ソースワークショップでは、そんな問いを投げかけられる。

これは決して、バーチャルな問いではない。
いつ何時、現実になるかもしれない問いなのだ。

改めて、自分の内側に問うてみた。

もし、人生の成功というものがあるとしたら
「あぁ・・・この人生で良かった」
そう心から思える最後を迎えることかなぁ、と私自身は思っている。


では、有終の美を飾るために、何をしていきたいだろう。
何に命を使っていきたいのだろうか?

やはり・・・・
やはり、そうなんだ。

「対話」

前回のブログで、今後のファインネットワールドは「対話」という方向へ舵を取っていくと書いた。

そうなんだ。
関わって下さった方と、深く共鳴しあうような対話をじっくりとしていきたい。

 ただ、対話を通して、
  相手に、多くの人に、何か伝えたいことがある訳でもない。
  こうなって欲しいというものもない。

ただただ、対話を通して、エネルギーを深く交流しあうことで、何かの痕跡を残していけたら・・・

これからの人生の中で、自分と相手を掛け合わせながら、自然に変容へと進む道を歩んでいけたらなぁ・・・

そんな静かな願いが今、満ち溢れている。

「これが生きる道だ!」とかいう、激しいうねりは私の中にない。
ただ淡々と、導かれる方向へと進んだ結果、

気がついたら、天命を生きていたということになるかもしれない。

それは、この世を去る瞬間に分かる、クイズの答えかもしれないが、今はその時を楽しみにしていよう。

同世代の知人の死は、私に一番大切な事を教えてくれた。

ありがとう。



このことを、ブログに書くのは躊躇しました。
でも、多くの人に喜びをもたらした彼だったら、自分の存在を通して、何か気づいてもらえたら嬉しいのでは・・・と思い、感謝を込めて、書くことにしました。

多くの人に愛され続けたターザンさんのブログがここにあります。
On the Road~夢を叶える人生の道を

心からご冥福をお祈りします。
この世でのご縁に感謝しながら、またお会いするときを楽しみにしています。

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新しい酒を古い革袋に入れるな

2010年6月2日

「俺、ブログって性に合わないねん」
事あるごとにブツクサ言ってるパートナーの赤木が、何かあったのか!?
せっせとブログを更新しているではないか。
赤木のブログ AkagiLog

何だか、刺激されちゃうなぁ。

さて、私たちファインネットワールドはこれから、「対話」をキーワードに、色々と展開していこうとしている。

その流れの中で、今、私どもファインネットワールドのメインサイトをフルモデルチェンジすべく、コンセプトやデザインを選定しているところ。

私がアンテナを立てているせいもあり、今年になってから、やたらと「対話」という言葉が耳に入るようになった。「対話の必要性」を説く論調も、時々見かける。

が、同じ対話という言葉を使っていても、人によって、用いられる場所によって、意味や定義がかなり違うようだ。

上司と部下とのコミュニケーションという意味で用いられることもあれば、市民活動の場での話し合いというイメージを持つ人もいる。

別に正しい・間違いはないと思うが、私たちの定義とは明らかに違う。

なので、ここで私たちファインネットワールドが目指す「対話とは?」を明確に定義し、それをサイトなりに掲載するつもりであった。

それが・・・昨日、風向きが変わった。

昨日、滋賀の友人と会いに行った。
「対話」について色々と話し込み、言葉の定義についての話題にも及んだが、話の流れの中で、こんな提案が浮上した。

「私たちが目指す”対話”を表現する、新しい言葉を創ろうか」

OH!と盛り上がる一同。

新しい酒を古い革袋に入れるな、という諺もあるくらいだしな」と赤木も賛同。

で、なぜそんな話になったのか。

何となく感じていた「懸念」が浮き彫りになったからだ。

言葉の意味を定義するということは、違いを創り出すことに繋がる。

つまり、「私たちが定義する”対話”とは?」と明確に線引きすることで、そうではない”対話”を同時に創り出してしまう。

もちろん、「私たちが定義するものが正しい」とか言うつもりもないし、そんな訳もない。
が、「私たちが定義する対話とは?」を説明するたびに、潜在意識は「世間で言われている”対話”とは意味が違うのよ~」を強調していくことになる。

そうすると、どうなるか。
分断の方向へと進んでいくと予想される。

ここで、私や赤木が目指す対話というのを、ごくごく簡単に説明すると、自分と深く繋がったところ発する言葉の話し合い といった意味合いを持つ。
思い入れがある分、どうしても特別意識も育ちやすくなってしまう。

「世間ではこう表現されてますけど、私が意味する対話はこう違います!」
みたいな説明を続けていくと、知らず知らずに、「違うのよ!」のエネルギーに引っ張られてしまう。少なくても、私にとっては。

世間でかなり広い意味で流通している言葉に、あえて縄張りを創るよりも、全く手垢がついてない言葉を用いる方がいいんじゃないか。

そんな語り合いの中で、新しい言葉で表現することにしたのだ。

で、どんな言葉にしようかを思案中。

今まで全く生まれてこなかった言葉にするか
造語にするか 付け足すか

あるいは「対話」を表す 外来語を持ってくるか。
英語なら「ダイアローグ」だが、他の言語、例えばラテン語? とか 中国語にするか

とりとめなく案は出たが、まだ生まれてはいない。

焦らずに、自分たちの目指す世界にフィットする言葉に出会いたいなぁ~。

※ 何か良い言葉が浮かんだら、ぜひ教えてくださいね。

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ニーチェという高い山に挑む

2010年5月31日

本来、私は「分かりやすい本」が大好きである。

勝間和代さんのような具体的な文体の方が、頭にすんなり入ってきて、ストレスが無いからだ。

逆に、赤木が時々買ってくるのだが、抽象的だったり、観念的だったりする書籍は、大の苦手。また、その手の書籍は分厚いことも多く、それだけでゲンナリしていた。

そんな私が、である。
こともあろうか、最近「哲学」に興味持っている。

そう、「鉄子」ならぬ、「哲子」なのぉ~ ← アミーゴ造語

哲学は面白いっ。
なーんせ、自分たちが当たり前と思っていたことに、当たり前すぎて考えもしなかったことに、「それって、ほんまなん?」って突っ込みが入れていく、ってのが私のイメージである。

とはいえ、いきなり大本営に突っ込んでいくのは、あまりに恐れ多かった。
まずは入門書からお近づきになってみた。

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)
これならわかる! 哲学入門

史上最強の哲学入門 (SUN MAGAZINE MOOK)これならわかる! 哲学入門

この2冊は、読みやすく、なかなかオススメ。

かつてのベストセラー小説「ソフィーの世界」も読破。
ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙

これも、オススメ。

「世界一分かりやすい哲学の授業」と帯に書かれていたが、それでもある程度は素地がないと理解しにくいと思う。

このように、しばらくは、哲学の周りをうろちょろしてみたが・・・

入門書は良くも悪くも、どうしても、その著者のフィルターが入ってしまう。
理解できなくてもいい、自分が直接、哲学者とコンタクト取ってみたいという欲求に贖えず、ついに、本丸へと挑戦した。

天才哲学者ニーチェの著書・翻訳本
ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2

ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2


これは小説風に書かれたものなので、よちよち歩きの哲子には良いかなぁとチョイス。
今、上巻を読了したところだ。

そして、一言・・・分からないっ。

そびえ立つ山は、やはり私には高すぎた。

「ツァラトゥストラはかく語りき」は、他にも多数の出版社から、翻訳本が出ている。
この岩波文庫版は、出来るだけ分かりやすく伝えることに、翻訳者は腐心したようだ。

平易な言葉を用いているにも関わらず、そのコンテキストというか・・・何が言いたいのかが理解し辛い。ページがなかなか進まない。

ただ、それまでにも入門書でニーチェ予習したので、「恐らく、こういうコトを言ってるのかなぁ~」と、推測出来る箇所はいくつもあった。

それでも、理解度は5~10%くらいのような気がする。

しかし、ここでひるむ訳にはいかない。
ページ数がさらに多い下巻へと、山に向かう心づもりでいる。

無事に下山できた暁のため、ちゃーんと「ツァラトゥストラはかく語りき」の要約本も用意した。ニーチェ 運命を味方にする力

ニーチェ 運命を味方にする力 (PHP文庫)

(最近ニーチェは流行ってるのか、本屋で関連本が山積みになっている)

まぁ、要約本を読んでも、現地点の理解力では、ニーチェ思想の全容を上澄みをかするくらいかな。

それでもいい。
今回の読書は、圧縮ファイルのまま、脳へとインストールするようなものだ

私の顕在意識は「さっぱり分かりません」とお手上げかもしれないが、潜在意識は恐らく違う。

インストールしておけば、いつか自然と、私の思想の中に自然と溶け込んでくるかもしれない。再読すると、より理解が深まるかもしれない。

いつか、ニーチェと対話できる日を楽しみにしておこうっと

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わが人生で諦めたこと 果たせなかったこと

2010年5月25日

「今後の人生で、これだけは実現したい」
10年近く前に、密かに願った夢があった。


「諦めなければ、夢は叶う!」
巷で流布する成功法則を試そうとしたのか? 実現に向けて、やれることは色々とやった。

「実現させるぞ!」
周りの人たちにも、高らかと宣言した。
もちろん、夢を紙にも書いた。
それだけでは覚束ないので、宝地図っぽい写真を撮り、壁に張った。

おっと、実現した後の未来の自分を、アリアリアリとイメージすることも忘れやしない。

その上で、実現に向けての行動を、毎日毎日行った。

夢を語り、自分を鼓舞し、さらに日々のアクションも起こしているのだから、叶わない訳がない。
叶わない訳はないだろうと思ってた。

私にとってはこのことを実現すると、実現しないとでは、人生がガラリと変わる。
早く、実現した世界へと移りたかった。

そして・・・

はい、実現しました!!


・・・鼻高々に言いたいところだが、今だに現実化していない。
それどころか、今世で実現させることを、ほぼ放棄してしまっている。

挫折感でいっぱいだが、モチベーションだけではどうにもならなかった。

で、私の人生で一体何を叶えたかったのか!?

はい、車の運転である。

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『なーんや。車の運転くらい、すぐにでも出来るようになるよ。』
友人は半ば呆れ返った面持ちで、そう励ましてくれる。

『あんなん、慣れやって』

もう、何十回言われただろう。
私も早く、そのセリフを実感できる世界へと行きたかったワ!

免許自体は24歳の頃に取得しているが、実家に車が無かったので、運転する機会も無かった。

そんなペーパーな私が一念発起してみたのは、車が無いとやや不便な今の地域に住み始めたのがきっかけだった。

車を運転出来たら・・・夫に頼まなくても、自由に買い物に行ける。
遠出するときも、夫に運転を代わってあげられる。
夫を駅まで送ってあげることもできる。

夢はますます膨らんでいく。

まずは、近所を1周するところから始まった。
「練習すれば、出来るようになる!」と思い込みたい一方で、徐々に、自分の中で高まる声を拭いきれなくなってきた。

「そもそも私って、運転に向いてないかも!?」


なぜなら、数分運転するだけで、気持ちが消耗しきるからだ。

車を運転してみる数分間・・・それは私にとって、危険なアドベンチャーだった。

反対車線から、対向車が間近に近づいてくるだけで、背筋が凍る。
狭い車線ではなく、およそぶつかりそうもない広い車線での対抗さえ、怖くて仕方がない。

車線変更すべく、前後の車の間にヘッドを突っ込んでいくなんて、もう決死の覚悟。
交差点のド真ん中で、急ブレーキをかけてしまい、夫に「殺す気か!」と怒鳴られたのも、ますます自信消失へと追いやった。

車を運転するたびに、一人アクション映画してたのでは、身が持たない。

しかし、ペーパードライバー教習まで通ったというのに、白紙に戻していいのだろうか。


『そりゃ、アミーゴが運転できると助かるけど、そこまで無理する必要ないやろ』

優しい夫が慰めてくれたのを良い事に、すっかり車の運転は依存させてもらうことになった。

もう、私の今世で実現することは、ほぼないだろう。

あ~ぁ、映画「マトリックス」であったように、コンセントをつないだら、その能力がチューニングされるといいのになぁ。

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死は、生を諦めた結果ではない-私の中のあなた

2010年5月18日

※ネタバレ注意報 発令中(笑)

久々にDVDを借りて観た。
昨年ロードショーされた「私の中のあなた」
私の中のあなた [DVD]

主役は、キュートな笑顔が魅力の女優・キャメロン・ディアス。

彼女が出演した15年以上前の出世作「マスク」の頃から観ている私は
あぁ、お母さん役がぴったりくる年齢になったのね~と、感慨深いものがある。

さて、この「私の中のあなた」

この映画は、家族愛もメインテーマになっていて、子供を持つ母親としても考えさせられるところが多かったが、このブログではあえてソコではなく、「死と生」の観点で感じたことを、お伝えしよう。

(また、キャメロン・ディアスに関する記述は、私が感情移入したものであって、
人によっては解釈が違うことも、冒頭でお断りしておく)

ざくっと、簡単にあらすじをお伝えすると。




家族構成は、父・母と男1人、女2人の合計5人。
姉のケイトは、生まれてからずっと病気を抱えていた。


母親であるキャメロン・ディアスは、弁護士というキャリアを捨てて、ケイトの治療に専念する。

が、やがて白血病と診断され、しかも腎臓が機能しなくなったケイト。


妹アナからの臓器提供が無ければ、助かる見込みがない。
しかし、それを妹が拒否して、裁判を起こすことになる・・・






当初は5歳まで生存できたら奇跡だと言われていたケイトだが、家族の献身もあり、その年齢を超えて、生き続けることが出来た。

しかし、その成功体験とも言うべきものがそうさせたのか、

ケイトを死なせないこと-それが彼女の絶対使命へと変わってしまったのだ。

自分の全てをケイトに捧げ、彼女の命を守ってきた-

それなのに、ケイトが死んでしまっては・・・
自分がこれまで捧げてきたものは、全てが無になってしまうのだろうか。

少しでも可能性があるなら、決して諦めてはいけない。
自分が諦めてしまえば、ケイトの人生は終わってしまう・・・

そんな執着に似た思いを、私は感じた。

子供に生き続けて欲しいと願う親心もよく分かるのだが、一方で、ケイトはどうなのだろうか?

彼女も生き続けていたかったのか?

実は、彼女は既に「死ぬ」ことを覚悟していたのだ。
それは生きるのが辛いからとか、治療がイヤだからといった 逃避を目的ではなく、心静かに、死を受け入れていたのだ。

だけど、母親は死なせてくれない・・・死を受け入れてくれないことを嘆いていた。
彼女の気持ちも伝わってきて、私の胸は痛んだ。

「死は、生を諦めた結果ではない」

この言葉が、私の中に迫ってきた。

「病気に負けた」という表現は、日常的によく聞くが、本当にそうなのだろうか??

死は、死である。それに対して、私たちは何の言葉も持てない。

が、生きることを諦めた末に訪れる世界ではない。

現代医療を駆使しても治癒できなかったとしても、それは決して
「病気に負けた結果」ではないし、「病魔を克服出来なかった子供」でもない。

生を全て受け入れることは、死も含めて丸ごと受け入れることである。

ケイトは、母親に「死を含めた、彼女の生」を、全て受け入れて欲しかったのではなかろうか。

私も子供を持つ母親なので、彼女のような立場に立たされたら、どうなるか分からない。きっと、こんな風に冷静には思えない。
なりふり構わず、子供を守り抜こうと思うかもしれない。

それでも、この映画の最後に、母親がケイトの死を受け入れたことに、心から安らぎを感じた。

ケイトは知っていたのではなかろうか。
自分の死を嘆くのではなく、受け入れることが、愛する家族のそれからに光をもたらすことを。

「生とは何か?」「死とは何か?」
私にとっては、そんなことを考えるきっかけとなった良い作品だった。

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