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どうしても、自宅に帰れなかったあの頃

2010年3月15日 月曜日

今から10年以上前になるが、私がまだOLだった頃。

会社を後にして、電車にゆられる。
アフターファイブの用事もないし、このまま家に帰るだけなんだけど・・・

どうしても、ダメだった。
どうしても、まっすぐ家に帰れなかった。


途中の駅で降りて、もしくは、繁華街まで乗り越す。

行き先は、いつも決まってコーヒーショップだった。
ドトールなどのセルフサービス店。
コーヒー片手
セルフ系の喫茶店は、私のような、女性一人客も多い。

おひとりさま用といえよう、カウンター席に座る。
周りに背を向けると、目の前は壁である。

周りの女性たちは、本を読んだり、タバコで一服したり、勉強していたり。
(当時は携帯メールが無かったが、今は携帯している人も多い)

狭いけど、一人きりになれる空間で、思いのまま過ごしている。

私ももっぱら本を持ち込んで、時を過ごしていた。

そこで何がある訳でもない。何かが起こったためしもない。

ただただコーヒーを飲んで、本を読むだけ。
でも、はーっと荷を下ろしたような感覚。
タバコは吸わないけど、フハーっと一服した感じを味わっていた。

ひとしきり気が済むと、コーヒーショップを出て、家路を向かう。


ただそれだけ。だけど、退社後の寄り道は辞められなかった。

その当時はその理由が、さっぱり分からなかった。
今でもはっきりと理由が分かっている訳ではないが。

最近読んだ本の中で、サードプレイスという概念に出会った。

ダイアローグ 対話する組織
 からの引用
ダイアローグ 対話する組織

サードプレイスとは、家(必要不可欠な第一の場所)と職場(必要不可欠な第二の場所)に加え、都市に暮らす人々にとっての「必要不可欠な第三の場所」を意味します。
(中略)
サードプレイスとは、強制されない自由を保ちつつ、他者とのゆるやかで
心地よい関係を構築することが出来る空間ということです。



つまり、職場でも家庭でもない、第3の自分になれる場所といえようか。

そう。あの頃、私は行き場を失っていた。

アミーゴはこうである-
私と職場の人達で潜在的に合意している自分、役割が息苦しくて仕方がなかった。

そして家に帰ると、今度は長年家庭の中で培ってきた、娘としての自分になる。
親子関係はまぁ良好だったと思うが、それはそれで固定化した自分に変わるときだ。


自分という多面的な存在があるにも関わらず、その中の二つの面しか表現できない。
しかも、その自分に満足していなかったのだ。

職場で背負ってた自分を、ふっと降ろせる場所。
誰という存在でもない場所を、コーヒーショップに求めていたのかもしれない。今から思えばだが・・・。

職場帰りに、飲み屋で一杯ひっかけてから帰るサラリーマンもこんな気持ちなのかな。

「職場でもない、家庭でもない場所。働く人にはいつもとは違う自分を出せる場所。
 そんな自分で対話できる場所が必要」

今、私どもでは対話の場を創ろうと模索している最中だが、一緒に創っている仲間からも、そんな意見が出た。

私はそっと、昔の自分に戻った。

私が抱いていた思いは、背負っている立場や背景は違えども、多くの働く人が感じていることかもしれない。

固定化した「あなた」から解放される場所-それがサードプレイスかもしれない。

今、働く人たちのサードプレイスとしての、対話の場を創ろうと準備しているところだ。
また形になってきたら、このブログでもお伝えするね!

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名もないセミナーを開催した

2010年3月1日 月曜日

一人一人の「知」と「知」がシナプスのように結び合い、新しい「知」が生まれる。
そんな「セミナー、もしくはワークショップのようなもの」を創りたい、と。

ここ数年、漠然と、そしてずっと心に描いていた。

対話する相手によって、自分から引き出される「知」は変わる。
コーチングで言うならば、コーチによって導かれる答えが変わるというのと同じ。

従来の「先生-生徒」に代表されるような、知の受け渡しではなく、その場にいる人全員の「知」と「知」が掛け合わされることで、化学反応のように新しい「知」が、その場に生まれるんじゃないだろうか。

仮説ともいえようが、そんな思いが徐々に強まっていた。


また、セミナーやワークショップという名称が相応しいのかどうかも分からないが、そんな新しい対話の「場」を創りたいなぁ~、そんな気持ちが徐々に増してきたのだ。

それを、この週末に実践してみた。

「名称もない」対話の場を、少人数で開催してみたのだ。

参加者には事前に、「今話したいテーマ」「皆の意見を聞いてみたいテーマ」を簡単に考えてきて欲しいとお願いしておいた。

当初はストーリーテリングの形で、一人5分話してもらい、そのテーマについて私たちも含めたメンバーで話しあう。私たちファシリテーターが時間などを制御しながら、それを繰り返すという形を想定してみたが。

「こちらが決めずに、流れに任せてもいいんじゃないか」

赤木の一言で、私たちファシリテーターの役割は殆ど不要となった。


「最近、こんなことを思っています・・・」
参加者が口火を切る。「それを聞いて思ったのは・・・」と、対話のリレーが続けられる。

その繰り返しの中で、普段、日常生活では殆ど語らないことが話題に登り始めた。


「自分とは誰か?-最近分からない。」
「過去は折り畳まれていて、それを想起した瞬間に生み出される」
「現実は同じだけど、最近、今までとは違うものを観てる気がする。それはいい感じではあるけど・・・」

などなど。

こうやって文章で表現しても、??が飛ぶ。そんな会話かもしれない。

が、その場にいると、漠然とでも理解できるから不思議だ。
いや頭では理解できなくても、それが呼び水となって、普段は思い出せないことがポッと口に出る。

私はこう見えても?、量子力学や哲学に興味があり、ちょっぴりかじってる。
とはいえ、通常はあまり思い起こすことが無いが、ふと口にしたくなって言ってみた。

殆ど対話だけで、5時間近くも費やしたのだ。


「自分が話しているのか、他人が話しているのか・・・
 その区別が途中でつかなくなってきた」


一人の参加者から、そんなコメントを得た。

驚いた。私も似たような感覚を得たからだ。


参加者と参加者の間に、ぽかーんと丸い宇宙が生まれ、その宇宙に相応しい対話が自然となされている

そんな感じだった。


これこそが、まさに、私が創りだしたい場であった。


「感動した! あぁ、これが私がやっていきたかったことだ!」
そんな・・・アドレナリン噴出し系の感覚は全くない。ボワーンと静かな感覚が残った。


人々は対話を求めている。

一時しのぎの、楽しいだけの会話もいい。
が、心の本質に触れるような話をしたい-そんな人々の希求を感じるときがある。

そして、あえてこの言葉を使うなら-魂-が喜ぶ対話を求めているのではないだろうか。それを、自分に聞かせたいのではなかろうか。

私は、自分を一番導いてくれるメンターは、結局は自分しかいないと思っている。
そして、そのメンターは自分が一番必要な智慧を知っている。

それを口にして、自分に聞かせてあげる機会を、待ち望んでいるのではないだろうかと・・・。


今回の対話の場で、
仮説に近い、漠然とした思いが、少し確信に近づいた気がした。

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