2/17に、ファインネットワールド共催という形で、子育てについて語り合うワールドカフェを昨日開催した。平日昼間、しかもワールドカフェは関西であまり知られていないのに、15名前後の参加者に来ていただけた。
今回は共催という立場だったものの、実際はいち参加者としてグループに入った。
私がワールドカフェを体験するのは、今回で2回目である。
主催者としての感想はまた別のところにあるが、いち参加者としての感想は、2回ともほぼ同じだった。
今回は、参加者という視点から得た気づきと、私が感じたワールドカフェに秘められた可能性について話す。
・・とその前に、ワールドカフェとは何か?ということから、ごくごく大雑把に説明しよう。
(あくまでも、私が体験したワールドカフェについての説明である)
あるテーマについて、4人一組で話しあう。その後、メンバーを入れ変えて、語り合う。これを3~4回繰り返す。
メンバーを変えることによって、同じテーマに対する様々な視点や気づきを得ることが出来るのだ。
で、全体のファシリテーターが一人いる。ファシリテーターの役割は、ただただ場を見守るだけで、グループで何が起きようと、基本的には介入しないのがスタンスである。
で、そんなワールドカフェを受けてみて、どうだったか。
子育てについて語り、色々な人の意見を聞くことにより、自分の囚われに気づくことが出来たのが嬉しかった。
アンケートでも、同じように気づきを得たり、子供への愛情を再認識できたという意見を頂けた。
ワールドカフェは、テーマに対する答えを教える場ではない。また、決まった答えや結論が出るというものでもない。
非常に自主性を重んじているので、参加者一人ひとり、得たものや感じたものがかなり違ってくる。
で、ここがミソなのだ。
普通のセミナーなら、あるテーマ、今回なら子育てに対する講師ならではの考え方や答えがあり、それを受講生に持って帰ってもらうことを目的とする。
セミナー中に、参加者同士の話し合いが持たれることも多いが、そのテーマについてしっかりと話し合えるよう、細心の注意を払う。時には、講師がグループ内の調整役に回る。
講師が場を調整し、得られるものを明確に提示することで、程度の差はあれど、受講生は、「あぁ、これが学べた。気づけた」という成果物を得ることができる。
一種、すっきり感を得られるというべきかな。
それに対して、ワールドカフェでは、そういうすっきり感を私は感じなかった。
なぜなら、話し合いは完全に各グループに委ねられ、基本的には何が起きてもOKというスタンスだったからだ。
この点は、ワールドカフェのファシリテーターにもよって違うかもしれないが・・・
ワールドカフェを受講する前、参加者同士の活発な意見交流で、気づきが気づきを促進する場を想像していた。
そういう場面も多々あったのだが、うまくいく場面だけではなかった。
実際、こんなことが、私が体験したワールドカフェのグループ内で起こっていた。
- 一人が独占して話す。または、殆ど発言しない人がいた。
- グループ内の話し合いがテーマから逸れた。戻そうとしたが、また逸れていく。
- 単なる雑談に興じてしまった。
- テーマに対する問いが不適切という議論が始まってしまった。
話し合いが機能するのは、メンバーによるところが大きいのでないか。
そして、ファシリテーターがあまりに関与しないと、参加者の満足度はまちまちではなかろうかと。
そんな疑問を、ファシリテーターにぶつけてみた。が、「それでOK」らしい。
話が脱線するのは決して悪い方向ではないし、単なる雑談にふけるグループがいたとしても、ワールドカフェ的には、それも一つの風景と捉えることができるそう。
なるほど。
でも、うーーん。それって、どうよ。
数年間、公開セミナーを主催し続け、常に受講生が予想以上の気づきや学びを得てもらいたいとセミナー設計し続けた身には、ちょっと理解しづらいことが正直あった。
私がワールドカフェの創始者なら、「話し合いによって、このレベルのことまでは気づいてもらいたい」とどうしても設計してしまう。ファシリテーターによって、場を介入してしまうだろう。
そういう意味で、ワールドカフェには、なんかモヤっとしたものが残った。
「単なる話し合いと、何が違うのかな・・・」と
しかし、ふとワールドカフェを俯瞰して考えてみた。
全く違う視点から見たとき、全く違う風景が見えることに気がついた。
それは・・・
一人のファシリテーターがいて、周りを4~5人のテーブルが多数囲んでいる。
各テーブルはそれぞれの話し合いに興じてる。まるで、バラバラの音を鳴らしつつ、それでいて、調和がとれている感じもするオーケストラのよう。
上からみると、曼荼羅みたいかもしれない。
そこで、ファシリテーターは何をしているのか。
「私はジャッジはしない。ただただ観察しているだけ。」
あるフレーズが浮かんだ。
名著「神との対話」に出てくる「神」が著者に伝えたメッセージである。
そう。ファシリテーターが、その場を見守る神のような存在としたならば、
グループというのは、地球上に存在する各国・地域・コミュニティのようなものではなかろうか、と。
(予め、お断りを。神と一言でいえども、人によってそれぞれの観があると思うが、
私がここで思い起こす”神”は、この著書に出てくる”神”である)
私たちが住む地球には、様々な人種がいて、色々な考え方がある。
安全な場で友人と語り合っている場所もあれば、紛争が絶えない場所もある。
それぞれが世界をどう感じるかは、今、関わっている人たちとの関係によって違うし、環境にもよる。輪の中にいる人たちは、めいっぱい楽しんでいる人もいれば、やや不満を持つ人達もいる。
それは、ある意味、現実社会の姿だと思う。
その縮図を、私個人は、ワールドカフェに感じた。
ワールドカフェは、全員同じ成果を得ることを求めない、受け取り方もそれぞれの感じ方に委ねている。
確かに、通常のセミナーに比べると、すっきり感は得にくいかもしれない。が、逆にそれを心から受け入れることが、社会を、そして多様な人格からなる自分を受け入れることに繋がらないだろうか。
ワールドカフェの創設者の思い、意図がそこにあるかどうかは分からない。
が、あくまでも私にとってだが、ワールドカフェに参加し続ける、そして開催を続ける意義があるとしたら、そこである。
そんな思いを強くした。ワールドカフェの可能性に、ますます惹かれている。


リラックスできる空間で、お茶やお菓子を楽しみながら、






