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「自由に話して下さい」の不自由さ

2010年6月25日 金曜日

ブログでもたびたびお伝えしている通り、最近の私はすっかり「対話」に目覚めている。
なので、可能な限り、あちこちの対話の場(主にワールドカフェ)に参加し、自らも対話の会を催したりしている。

こういった参加者が主体的に話す対話の場では、参加者が対話を始める前に、ファシリテーターが簡単にその会の趣旨や、注意点(一人が長く話しすぎないように)などを話すことが多い。

その際に、ファシリテーターが、何気なくよく使う言葉がある。

「何でも自由に話して下さい」

この言葉。私も対話の場を主宰する際には、よく使う。

これは、上手に話さないといけないとか、そういう事は気にせずに、自分が感じていることをそのまま言葉に出して下さいね、というファシリテーターからのメッセージであり、温かい思いから発せられることが多い。

自分が感じるままに、自由に話が出来る。
自分の内側からほとばしるようなことが語れる・・・そんな活発な対話の場を想像しがちだが、果たしてそうだろうか?

もちろん、そうなるケースもあるが、停滞してしまうケースも実は多々経験してきた。

「何でも話していいはずなのに、何も話すことが無くなった」という体験を、何度かしてきた。自分の主宰分も含めて。

それはナゼだろう・・・自分なりに色々と探ってみたところ、改めて感じたことがある。


「何でも自由に話す」ということが、いかに難しいかということを。

なぜなら、この「自由に」ということが、意外とクセ者であるからだ。
自由にと言っておきながらも、では全くの制限なく、何でも話していい場なのか?と言われると、そうではない。

そこには、ファシリテーターが漠然と意図している「自由」の範疇がある。
参加者も、それは漠然と察している。

参加者なりに、その場の空気、ファシリテーターの意図を探りながらも、「その場で了承してもらえるだろう”自由”」の範疇で話すことになる。

「自由に話す」と言われると、ある意味分かったような気になるが、実は人によって、定義もイメージも全く違う。

  • ある人は、普段、職場の人とは話せないディープな会話(哲学的やスピリッチャルなど)を「自由に」話したいと思う。
  • またある人は、特に話したいことはないけど、何でも話せる場だったら、日常の憂さでも「自由に」話そうかと思う。
  • またある人は・・・
という風に、「自由に話したい内容」の中に、何が入るのかは人によって違うのだ。

その参加者がおぼろげにでも感じていた「話したかったこと」が話せる場になればいいが、対話相手との流れにより、そうはならないことも多い。

ただの雑談で終わったなぁ・・・そう感じたことも正直あった。

例え、雑談に終わろうとも、その場で生まれたものを大切にしたい。
主宰者がそのこと自体に意義を感じていたら、それでOKだと思う。


しかし、「こんな対話が行われる場になれば・・」

漠然とでも、主宰者側にもそんな意図や願いがあるならば、「何でも自由に」で、参加者の意図に任せるだけの形ではなく、「ここでは、どんな対話が行われる場なのか」を、もしくはそこでの対話のルールを明確にしておいた方がいいのではないだろうか。

主宰者の意図や、そこで行われるべき「対話のルール」を想定することは、ある意味では対話の不自由さを感じさせるかもしれない。

しかし、「自由に話す」ということ自体も、結局は「自由らしきもの」の枠組みに入れるということである。

どの道、枠組みに入ってしまうならば、自分はどの枠組みを選ぶだろうか。

いずれにせよ、主宰者が実現した対話の場を明確にし、それに従って対話を進めてもらうようにした方が、参加者にとっても、かえって負担が軽くなるのではないだろうか。


「何でも自由」というのは、かえって制限が加えられるということを実感する、今日この頃である。

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新しい酒を古い革袋に入れるな

2010年6月2日 水曜日

「俺、ブログって性に合わないねん」
事あるごとにブツクサ言ってるパートナーの赤木が、何かあったのか!?
せっせとブログを更新しているではないか。
赤木のブログ AkagiLog

何だか、刺激されちゃうなぁ。

さて、私たちファインネットワールドはこれから、「対話」をキーワードに、色々と展開していこうとしている。

その流れの中で、今、私どもファインネットワールドのメインサイトをフルモデルチェンジすべく、コンセプトやデザインを選定しているところ。

私がアンテナを立てているせいもあり、今年になってから、やたらと「対話」という言葉が耳に入るようになった。「対話の必要性」を説く論調も、時々見かける。

が、同じ対話という言葉を使っていても、人によって、用いられる場所によって、意味や定義がかなり違うようだ。

上司と部下とのコミュニケーションという意味で用いられることもあれば、市民活動の場での話し合いというイメージを持つ人もいる。

別に正しい・間違いはないと思うが、私たちの定義とは明らかに違う。

なので、ここで私たちファインネットワールドが目指す「対話とは?」を明確に定義し、それをサイトなりに掲載するつもりであった。

それが・・・昨日、風向きが変わった。

昨日、滋賀の友人と会いに行った。
「対話」について色々と話し込み、言葉の定義についての話題にも及んだが、話の流れの中で、こんな提案が浮上した。

「私たちが目指す”対話”を表現する、新しい言葉を創ろうか」

OH!と盛り上がる一同。

新しい酒を古い革袋に入れるな、という諺もあるくらいだしな」と赤木も賛同。

で、なぜそんな話になったのか。

何となく感じていた「懸念」が浮き彫りになったからだ。

言葉の意味を定義するということは、違いを創り出すことに繋がる。

つまり、「私たちが定義する”対話”とは?」と明確に線引きすることで、そうではない”対話”を同時に創り出してしまう。

もちろん、「私たちが定義するものが正しい」とか言うつもりもないし、そんな訳もない。
が、「私たちが定義する対話とは?」を説明するたびに、潜在意識は「世間で言われている”対話”とは意味が違うのよ~」を強調していくことになる。

そうすると、どうなるか。
分断の方向へと進んでいくと予想される。

ここで、私や赤木が目指す対話というのを、ごくごく簡単に説明すると、自分と深く繋がったところ発する言葉の話し合い といった意味合いを持つ。
思い入れがある分、どうしても特別意識も育ちやすくなってしまう。

「世間ではこう表現されてますけど、私が意味する対話はこう違います!」
みたいな説明を続けていくと、知らず知らずに、「違うのよ!」のエネルギーに引っ張られてしまう。少なくても、私にとっては。

世間でかなり広い意味で流通している言葉に、あえて縄張りを創るよりも、全く手垢がついてない言葉を用いる方がいいんじゃないか。

そんな語り合いの中で、新しい言葉で表現することにしたのだ。

で、どんな言葉にしようかを思案中。

今まで全く生まれてこなかった言葉にするか
造語にするか 付け足すか

あるいは「対話」を表す 外来語を持ってくるか。
英語なら「ダイアローグ」だが、他の言語、例えばラテン語? とか 中国語にするか

とりとめなく案は出たが、まだ生まれてはいない。

焦らずに、自分たちの目指す世界にフィットする言葉に出会いたいなぁ~。

※ 何か良い言葉が浮かんだら、ぜひ教えてくださいね。

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