‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

嫌煙原理主義者にはなれない理由

2010年8月26日 木曜日

私はこれまで、煙草とはほぼ無縁の人生を送っていた。
若気の至りで、ほんの1~2本、試してみたくらいはある。が、全く習慣にならないまま、時は過ぎた。

年々、世間では「禁煙!禁煙!」と喧伝されるようになった。堂々と喫煙できる場所も減り続け、喫煙者にとっては肩身が狭くなってきているのではなかろうか。

私個人の見解としては、煙草はそれぞれの好き勝手でしょ?という、リベラルな姿勢を取っている。

・・・つもりだった。


が、よくよく思い当たると、私も「嫌煙家」になりつつあるかもしれない。

いや、喫煙者の自由も理解したいところだが、そうならざる得ないのだ。今となっては。

あぁ、うめぇ~

あぁ、うめぇ~



かつて煙草は、私の身の回りに存在していた。
実家では、父と兄が煙草を嗜んでいたので、煙がある風景は普通だった。

20年以上前、成人男性の殆どは煙草を吸ってたんじゃなかろうか・・・と思えるほど、喫煙風景は街中に溶け込んでいた。

私が就職した頃(バブル後期ね)は、職場は分煙なんぞ無く、皆が好き勝手に、席で煙草を吸っていた。

飲み会でも当たり前。だから、煙草の煙、匂いには耐性があったというか、さほど気にならなかった。

・・・が、時代が21世紀に近づくにつれ、急速に分煙化が進んでいった。

私が退職する頃には、職場では喫煙ブースが設けられ、席で吸うことは許されなくなった。

そうこうしているうちに、私の周りには、喫煙者がめっきり減った。若い頃は嗜んでいた友人も、いつの間にか辞めている。

現在、私の親族(私の実家、夫の家族)で、煙草をすう人は、もはや誰もいなくなった。おかげで、娘は煙草の存在すら知らない。

また、コーチの友人が多く混ざる、私の交流関係の中では、これまた何故か、煙草を吸う人が少ない。10人中1~2人くらい? もっと少ないかなぁ・・・


煙草の煙をかぐ機会がめっきり減った。
そのせいで、耐性がどうやら無くなってきたみたい。

かつては全く平気だった匂いや煙に、敏感に反応するようになってしまった。。

タクシーに乗車しても、前の乗客が残した匂いにむせてしまう。
ホテルマンに丁寧に接客頂いても、彼の服から匂いが立ち込めるだけで、「あぁ・・・」とゲンナリしてしまう。

喫茶店で、斜め後ろにいるお客さんの副流煙がこちらに流れたとき、思わず「キッ!」と振り返ってしまう。

その形相は・・・

恐らく、嫌煙家そのものであろう。


「あのね、嫌煙家が向ける、喫煙者への視線って、本当に怖いんですよーーー」
かつて、単発でコーチングをした方が、しみじみ言っていたのを思い出す。
(そのかたは、すでに禁煙に成功したんだけど)

確かに、寒いのに外に出て、背中を丸めて喫煙している姿をみると、ちょっと気の毒に思える。

現に、私の周りの数少ない喫煙者はとてもマナーが良い。灰皿持参は当たり前で、同席しても吸わない人を配慮し、ちゃんと席を外して喫煙している。

彼らをみてると、そこまで嫌煙だ!と躍起にならんでもいいかな~とも思えてくる。


そこで、冷静に考えてみた。煙草がなぜ、ここまで嫌われるようになったのか?

煙草の存在自体がイヤという訳ではない。
恐らく、吸わない人にとって苦痛なのは、その「煙」だけである。
慣れてない人間にとっては、あの匂いが、本当に辛いのだ。

個人で楽しんでいる喫煙行為を邪魔したくはないが、そこは勘弁してほしい・・・
うーん、ジレンマ。

煙が出ない煙草って、かつて発売された記憶はあるが、普及している様子はない。
やはり吐き出すことで落ち着くんだろうね。


まぁ、今は健康ブームと相まって、たまたま喫煙が目の敵となっている。
、私は今後、標的は変わっていくだろうとみている。

もし、煙草増税で大幅値上げになった結果、喫煙者が壊滅的に減ったとしよう。

この流れで行くと、次に狙われるのは・・・

飲酒のような気がするぞ!

かんばーい!

かんばーい!



煙草が他人に与える害といっても、副流煙や火の不始末くらい。
が、飲酒の方が実は、やっかいな騒動を巻き起こしている。

酔っ払って絡むのも困りものだが(私、たまに赤木にしてるかな)、大きいところでは、急性アルコール中毒で救急車出動だったり、飲酒運転による事故だったり。

最近、日本人の飲酒量が減っている。この流れでいくと、喫煙と同じく、飲酒も槍玉に上がるのではなかろうか。

うーん、それは困る。

だって、私は目下、減酒中ではあるが、相変わらずお酒は好き。
そういう意味では、立派な利権者だ。

きゃっ~
「酒飲みは、自分をコントロールできてない証拠だ」とか言われるようになったら・・・

いやだなぁ~。

うーむ・・・

嫌煙原理主義者には、なれないなぁ。
同じスネに傷を持つもの同士としてね(笑)

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虐待報道について思うこと

2010年8月5日 木曜日

今、日本では3日に一度の割合で、子供が虐待死していると言われている。
先日も、幼児遺棄事件が大阪で起こったところだった。

こういう事件が起きると、マスコミはセンセーショナルに取り上げる。
耳を覆いたくなるような内容も多く、胸が痛む。

一児の母として、幼児虐待については、色々と思いを馳せる部分があるが、今回は幼児虐待をめぐるマスコミの報道について、私なりの考えを伝えたいと思う。

確かに、ここ数年で、幼児虐待のニュースは目に見えて、増えているような気がする。

恐らく昔、私が子供だった頃も、今でいう「虐待」というものは存在していたと思うが、それは「ファミリーシークレット」として闇に葬られ、公の目に晒されてなかったのだろう。

こうやって、大々的に報道されることで得られる利点は、確かにある。

闇に葬られていた部分が、報道によって認知されることとなった。多くの人が問題意識を持った結果、児童相談所への通報が増えたと聞いた。

もちろん夜泣き程度での通報といったものもあるが、通報によって助かった命もきっと多いだろう。

そういう意味では、報道による抑制効果はあると言える。

ただ、こういう報道には、抑制効果とは全く逆の、大きな功罪がつきまとう。

一番怖いと私が感じるのは、事件の報道をすればするほど、結果的に多くの人に刷り込まれてしまうことだ。

「親は子供を虐待することもある」

繰り返し、繰り返しその行為をTVという媒体で、五感に強く訴えるということは、その作法を教育しているようなものである。

「みんなもしているから・・・」「私だけではない」と、無意識下で、ある種の免罪符を与えてしまうことにならないだろうか。

このような報道を、全面的に否定している訳では決してない。

が、有名人の自殺報道の後、連鎖的な自殺者が増える傾向と同じものを感じる。

もし、このような報道が殆ど無くなったとしたら・・・
いや、「幼児虐待」という概念や言葉すら、この世に存在しなかったとしたら・・・

それが良い/悪いと見做す前に、そもそも「そんな行為がこの世にある」ということさえ、思いつかなかったかもしれない。

ただでさえ、言葉は概念を創る。世界を創る。
繰り返し耳にする言葉は、自分の意思とは関係なく、無意識化で影響されていく。

残念ながら、マスコミがセンセーショナルに煽らずに、視聴者への影響も考慮した報道の仕方をしているとはあまり思えない。

が、受け手の私たちは、送り手が変わるのを待っていても仕方がない。

そして、報道番組のコメンテーターのように、「身勝手だ」「親として失格」と一方的になじるだけでは、何も変わらない。

私個人としては、こう受け止めたい。

私の中にも、彼らがいる。
彼らが起こしたことは、私にも責任の一端がある。


これはホ・オポノポノのスピリットに通じるところがあると思う。

ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ 神聖なる知能が導く、心の平和のための苦悩の手放し方

最初、ホ・オポノポノの書籍でヒューレン博士のこのような考え方に触れたとき、「そうは言ってもねー」と抵抗してみたものの、やはり行き着くところはココしかないと、実感するようになった。

それを踏まえて、ホ・オポノポノの教えのとおり、唱えてもいいし
私は今回、ほんの小さなことでも、自分に何か出来ることはあるだろうか・・・と考えてみた。


もちろん、彼らがしたことは決して許されることではない。
しかし、少なくても傍観者となって、対象者を責めるだけでは・・・自分すら救われない気がして仕方がない。

マスコミは良くも悪くも、人々の思想形成に大きな影響を与える。
そのパワーを良い方向に利用すれば、人々のさらなる意識進化に導くサポートも出来るかも・・・と思うんだけどなぁ。

そうしたら、もっとTVを観るかもね。
(普段、子供番組以外は観ないので、地デジ対応TVすら、まだ買っていないし)

※今回の問題について取り上げたLilyさんのブログ
 加害者の母親に対して、そしてお子様に対する優しい気持ちに
 私も涙があふれました。

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もしも命が無限だとしたら・・・

2010年6月9日 水曜日

昨日のブログで、「もしも命があと一年・・・一週間だったら?」という問いを立ててみたが、
偶然にも、私の友人がブログで、真逆の問いを発していた。

「もしも今の肉体のままで、命が無限だったら、何をするでしょうか?」

彼女の問いは上記そのものではないが、私はこのように解釈し、改めて思索にふけってみた。

命に制限を加えての問いはよく見かける。
が、無制限になったとしたら・・・という問いは、あまり見かけたことがない。

うーん、逆に制限が無くなったら、何をしたいかな~。
この問いに対する、明確な答えは私の中でまた出てきていない。

が、もしこの肉体のままで、不老不死になったとしたら・・・
これは人間の存在を、根本から揺るがすものではなかろうか。


私たち人間は、地球上の生物といってもいいだろうか、命には限りがあるという大前提で生きている。

自分たちの中にある様々な考えや思想を取り外しても、この大前提だけは動かしもない真実とされている。

が、当たり前すぎて、抵抗の余地もなかった、この大前提が無くなってしまったら
ある時を境に、命の制限が無くなってしまったら・・・

そんな人類史上、未曾有の大転換が起こってしまったら、この人間社会はどうなるのだろう??

だって、社会の仕組み、思想の根本背景からして、「人はいつか死ぬ」というものが組み込まれている。そこも、根本的に組み替えていく必要がでるだろう。

また、いつかは死ぬことを前提とした、「よりよく生きるには?」の問いが
「よりよく生き続けるには?」という問いに転換される。

改めて、問う。
「もしも今の肉体のままで(健康状態も良好なまま)、命が無限だったら・・・・」

今、心に思う夢に向かって邁進し、かなりの時間を経て叶う人もいるだろう。

もっとも、独裁者となって、世界征服も出来るかもしれない。

しかし、成し遂げられた先にも、まだ人生が脈々と続いていく・・・となったとき、どうなんだろう??


 人は幸せを感じ続けることが出来るのだろうか?

 人生に飽きることなく、生き続けることが出来るのだろうか?


・・・これも、私には答えがない。思考実験のようなものだから。

ただ、何となく思うことがある。
恐らくエゴを満たし続けるだけでは、幸せを感じながら、膨大な時間を生き続けるのは難しいだろう。

いいかげん、飽きてくるような気がするなぁ。
怠惰になるにもいいけど、それでも時間が有り余る。

そうなると、自分の境地も別の次元にいかなあかん!ということで、悟りとかに自然と向かっていくかもしれないね。

今の私たちの多くは、命の制限を感じたとき、生を輝かそうという動きになる。
逆に、命が無制限になっても、今とは別の形で、生を輝かさざるえないかもしれないなぁ。

とまぁ、とりとめもなく、結論もない話となったが。
いつもとは違う頭が刺激されて、面白い機会となった。

これからも、折をみて、考えてみようかな。

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噛み合わない議論を通して~勝間さん×ひろゆき氏

2010年5月6日 木曜日

今、ネットで話題沸騰中の、勝間和代さんと西村博之さん(2CH元管理人)の対談を見てみた。

いやぁ、面白かった。
あそこまで、全く噛み合わない議論も珍しい。

ネット上での対談に関する感想を、ちらほら見ると、大半は勝間さん批判である。
確かに、いつもの勝間さんの饒舌ぶりが空回りしていた感はあった。

が、それは、アノひろゆき氏が相手なら、仕方がないかなぁ~と思う。
非常にタフな人なのだ。

が、私は勝間さんも好きなんだが、水と油ともいうべき、ひろゆき氏も、何となく惹かれる存在ではあった。

「世間一般で暗黙の了解とされているような、普通、当たり前の概念が薄い人」
というのが、私のひろゆきさんの印象である。

そして、この印象は対談を観ていて、さらに深まった。


勝間さんはある前提の上で、話し合いを進めようとする。
例えば、「ネット上での匿名の発言は、誹謗中傷を招きやすい」
「今、若年層の若者が元気がないと言われているが・・・」
など


ソレに対する、ひろゆき氏の反応が際立ってる。
普通なら、もし議論になるとしても、その前提を俎上にのせた上での、方法論の違いからになるところが・・・

ひろゆき氏は、前提に関して、容赦なく突っ込んでくる。
「(若者は)元気にならなきゃいけないんですか?」

勝間さんご自身がその前提について、疑ったこともないほど当たり前だったのかもしれないが、彼女の言いたいことをどうにか分からせようと、データや例え話を用いて、訴え続けた。

が、勝間さんが必死で網をかけようとすればするほど、ひろゆき氏はスルリと逃げていく。

私はプチカツマーで、彼女の本が好きではあるが、今回はやや、ひろゆき氏の方に共感を覚えた。

まるで哲学者のごとく?、根本的なところを問う姿勢に。


日本は幸福度調査において必ず下位だとデータ示されても、何を持って幸福とするのかは人によって違うし、そもそも幸福でないといけないのか?という問いを私も持つ。

彼女自身の「幸福」というものの考え方は、下記の表現に現れてる。
「幸せにはいくつかファクターがあり、昨日より今日、今日より明日が良くなるとか、自分の能力が自分の最大限発揮されてそれに対して、まさしく家族ができて友人できて社会が喜んでくれるとか、様々な私たちの幸福度を左右する物がある」

幸せを定義する一つの価値観だと思うが、万人に共通のものではないだろう。

幸せの価値観を共有していない二人が、それを前提に話を進めようとしても無理があるんだが・・・普通は、ちょっと違うなぁ~と思っても、相手の口上に乗せられて、議論を進めていく。特に勝間さんのあのエネルギーの前では、私など頭が真っ白になりそうだ。

しかし、ひろゆき氏はひるまない。

勝間さんも書籍や他の場ではさほど、価値観を押し付ける人ではないんだが、相手がひろゆき氏で、ああいう展開になってしまったが故に、その面が出てしまったのかもしれない。

やはり、誰と話するかによって、出てくる自分が変わるんだなぁ。

エンターテイメントとしては面白かったと思うし、これでデキビジという新番組も盛り上がって結果オーライかもしれない。

※Youtubeで放映されていた対談は、こちらから全文ご覧になれます。

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三毒追放ってどうよ?

2010年3月23日 火曜日

怒らない、妬まない、愚痴らない
三毒追放と呼ばれるこのスローガンを世に広めているのは、破竹の勢いで活躍中の勝間和代さん。

私は彼女の著作が好きで、半分くらいは読んでいるかなぁ。
↓ 一番最初に出会ったのは、この本。今でも好きな一冊。
効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法

効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法

「へぇ~、こんな風に考える人があるんだぁ~」
彼女の視点は新鮮で、よく驚かされた。初期の著作では特に。

その彼女が、あらゆる著作でお伝えしているのが、この三毒追放であるが。

彼女がなぜ、三毒追放をより多くの人にオススメするのかを、著作でもページを割いて、丁寧に説明している。

その理由には、全く反論がない。恐らくその通りだろう。

・・・しかし、私はやや違和感を感じている。


声高に反論するほどの違和感ではないが・・・
それって、どうよ?という程度に小骨が刺さってる。



なぜ、私が違和感を感じているのか・・・。

一言でいうと、こうだ。
「怒り、妬み、愚痴を、毒に指定するのって、どうよ?」


これらの3つが及ぼす作用は、私にだってよく分かる。時には身を滅ぼしかねない。


しかし、「毒だーー」といって、目の敵にするのはどうだろうか?


私が危惧しているのは、「毒扱い」にすることによって、余計にそれら3つのパワーを増大させてしまっている気がすることである。

なぜなら、「毒だーー」「追放せよーーー」と号令するほどの存在に、祭りあげてしまっているからだ。


怒りや妬み、愚痴の奥には、悲しみが横たわっている。
思い通りにいかないからといって、子供のようにワーンと泣くわけにいかない。
(大人のたしなみとして・・・)

だから、代替手段として、この3つを自然に用いているのだ。
言い換えれば、自分が悲しみを感じなくて済むように、守ってくれた感情や行為でもある。

それを追い立てるように追放することに、私は疑問を感じる。


といっても、やはり「怒り、妬み、愚痴」は、人生を好転する方向には持っていかない。
だから、毒だと言われても仕方がない所以はある。

では、どうしたらいいのか・・・


私は三毒追放の代わりに、取り組んでみようと思っていることがある。

それには、かなり時間はかかる。人生をかけて、といっても過言ではないくらいに。


ただ・・・文章でうまく伝えられるかどうか分からないが、2010年現在の自分が、表現できる範囲でお伝えしていこうと思う。


メチャ長くなるので、続きは次回に・・・

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