分かる!と思ったとたん、分からなくなる書
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」
悪人正機説 - 親鸞上人のことばとして有名ですよね。
このことばは、親鸞上人の弟子にあたる唯円が書いた書により後世まで伝えられました。
「歎異抄はふしぎな書物である。」
五木寛之さんによる冒頭のことばが、この書の全てを語っています。
実につかみどころがないと言いましょうか。
五木寛之さんの私訳から、引用してみましょう。
・あさましいこの自分の身も、阿弥陀仏の慈悲を身に受ければこそ、喜びにみたされることもできる。しかしだからといって故意に悪行をすべきではないし、そもそも身にそぐわない悪など人にできるものでもない。
・それでも人が犯す悪は仏の誓願の妨げにはならない。仏教の戒律を守らなければ往生はできないということでもない。
悪人こそ救われる。だからといって、故意に悪行を行うべきではない。
それでも、悪を犯した者は浄土に往生できないかというと、そうではない。
どっちやねん!
白黒ハッキリな、二元論に慣れている身からすればモヤモヤします。
分かるような分からないような・・・狐につままれた気持ちで読み進めていったところ・・・。
これが、この書の面白いところなのですが。
あるとき、フッと門がひらくのです。
「あぁ、こういうことか・・・。」
腹に何かが落ちた感覚とともに、言わんとしていることが分かります。
ただ私も凡夫で、欲深い人間なのでしょう。
頭で理解しようと、アレコレ思考をめぐらせるクセが出ます。
既存の知識やその枠組みを当てはめて解明しようとすると途端に、門がピシャっと閉まります。
ならば思考を止めれば分かるのか、そうも単純ではありません。
お酒を飲み、ほろ酔い気分で読んでも、内容がさっぱり頭に入ってこないのです。
冷徹な思考力が働くときでないと門があかないのですが、さりとて思考を駆使しだすと、とたんに門が閉じられます。
自分の思考のチカラで理解してみせる!
これは親鸞上人がいうところの、自力なのかもしれませんが。
歎異抄は、自分のちっぽけな思考では計り知れないことだけは身にしみました。
全てに身を任せて、この教えそのものに心も身体も開くときに、ふいに他力が働くのでしょうか。
ただし、その保証はありません。
他力さえ働けばと、期待するものとも違います。
人生をゆるがす辛い出来事にであったときも
自力を手放し、他力に身を任せたとき、救われることもあるかもしれません。
だからといって何もしなくていいのではなく、他力に身を任せさえすれば必ず救われるのでもないのです。
歎異抄には、私たちが欲しがる確実な答えはありません。
でも私には、それこそが真実に思えて仕方がないのです。