才能は必ず見い出されるものだろうか
先日、天才数学者ラマヌジャンの半生を描いた映画「奇蹟がくれた数式」を観てきました。
ラマヌジャンが発見した公式は現在、ブラックホールの研究やインターネットにも応用されているそうです。
もともとは英国植民地時代のインドで、明けても暮れても数学に没頭する一人の青年でした。
コツコツ書き記していた数式をみた職場の上司が、これはタダ者ではないと見抜き、英国の数学者に数式を見てもらうよう勧めました。
その手紙をみた英国の数学者ハーディがその天才性に驚愕し、英国に呼び寄せたのが、後世に名を残すきっかけとなったのです。
「ズバ抜けた才能は、どんな形であっても、必ず誰かが見出すものだろうか。
それとも後世の私たちが知らぬまま、埋もれてしまった才能も多いのだろうか・・・。」
異彩を放つ才能をみるたび、風が揺さぶりをかけます。
画家のピカソのように自らの才能を積極的に世に問うて、自力で富と名声を勝ち取る人もいますが
たまたま理解できる人に出会えたことで、地下にくすぶっていた才能が日の目を見ることもあります。
ラマヌジャンにとっては、ハーディがその人でしょう。
ただ彼は幸運にも生前に見出されましたが、死後に名声を博した例も数え切れません。
画家のゴッホ、音楽家のモーツアルトやシューベルトがそうですし、日本でも宮沢賢治や金子みすゞが思い浮かびますね。
地中に埋もれたダイアモンドが掘り出されるように
抜きん出た才能のキラメキは、放置を許されるはずはない。
後世であっても、必ず誰かに見いだされる・・・そうあって欲しい気持ちもありますが。
一方で、歴史に埋もれ、ひっそりと朽ち果てた才能はあるのかなと、胸にはかなさが漂います。
もしも、埋もれる前に誰かが見つけ出し、その才能がもし世に放たれたとしたら・・・。
今ある世界は違っていた可能性はあるのでしょうか。
私たちは、すでに何かを失ってしまったのでしょうか・・・
空に向かって 問いかけを投げてみても
それは永遠に解き明かされない謎でしょう。
共同墓地に葬られたモーツアルトの遺骨は、もう識別することはできないと聞きます。
同じく、歴史の腐葉土のなかに溶けていった才能は、それが存在したかどうかさえ見出すことができません。
土に還った命が、めぐりめぐる循環のなかで、新たな命につながっていくように。
開花すべき才能も再びタネとなって、誰かのもとへ還るのかもしれません。
そのタネは、あなたも私も・・・いや誰もがそっと宿し、開花を待っているのかもしれませんね。