当たり前が放つもの
「当たり前」
この言葉こそが、今持っているもののの価値を薄めていくのででしょうか。
幸せとは落差である、と私は書きましたが。
そのセンで考えてみると、幸せを感じる出来事には2種類あります。
一つは、これまで「当たり前」ではなかったものが得られたときですね。
愛する人と結婚した、仕事を軌道に載せた、ダイエットに成功したというのが分かりやすい例でしょうか。
そして、もう一つ。
これまで「当たり前」だったことが「当たり前」で無くなったときに、改めて実感できるのではないでしょうか。
「デーブと私は十分な時間を一緒に過ごせませんでした。
この数日間、まったく予期せぬ地獄のような出来事に心が打ちのめされましたが、同時に同じくらいの感謝の気持ちがこみ上げています。
人生の最も暗く、悲しい瞬間に、今までどれだけ私が幸運だったのかを知りました。
もし彼との日々が最初から11年間で終わってしまうことをあらかじめ誰かに聞かされていたとしても、私は彼と共にこの道を歩んできたでしょう」
米フェイスブックのCOO(最高執行責任者)のシェリル・サンドバーグさんが、ご主人の死に対して語った言葉が全てを物語っています。
得たとき、そして失ったときに、より強く感じられるのが「幸せ」であるならば。
その「渦中」にあるときは、「当たり前」化してしまうのでしょうね。
健康、快適な家、仕事、趣味 ・・・はたまた空気、水、電気に至るまで。
私たちは既に、失ったときに「ありがたさ」が骨身まで染みるものに囲まれています。
喪失という影をもって初めて、「当たり前」が放つ光の眩しさに気づくのでしょうか。