思い出の富士登山体験記
いつかは・・・と思い描いていた富士山を決意したのは、2016年でした。
一人で登るのは寂しいので、気乗りしない弊社代表・赤木を説得。
しぶしぶ了承した赤木とともに登山グッズを買い込み、いざ現地へ!
コロナ渦の2020年は登山禁止でしたが、毎年30万人前後が登ると言われます。
百聞は一見にしかず、実際に登ってみて体感したのは、多くの人を惹きつける魅力があるということでした。
下手な観光地に行くよりよほど、一人一人にドラマが生まれます。
体験談を熱く語りたくなる場所です。
富士山は頂上に至るまでに4つのルートがあります。
私は登山者の半分以上は選ぶという吉田ルートにチャレンジしました。
吉田ルートの五合目。おみやげ屋やレストランが並ぶ登山道の出発口は、渋谷?心斎橋?なみの人混みでごった返してます。
日本人だけでなく、アジア人(中国か韓国が大半)や西欧人、黒人と国際色は豊かです。ツアー客も交えて、ドカンドカンと登山道へと歩いていきます。
5合目から6合目までは緑も多く、道もなだらかで、ハイキング気分を味わえました。この後に訪れる苦難も知らず、「そういえば、富士山なんて楽勝って、誰か言ってたよな~」と呑気に構えてた私でした。
6合目を過ぎると、だんだん傾斜がきつくなります。7合目は、手をつきながらよじ登る岩場が続くのです。
これがキツイ! キツイ! キツすぎるーーーっ!
誰だーーっ、楽勝なんて言ったヤツはー!!
しかも、青ざめた顔で歩く赤木から不穏な言葉が・・・
「頭が痛い。気分が悪い・・・。」
ムムっ。これは悪名高き高山病ではないか??
7合目途中の、宿泊する山小屋に着いたときは、心の芯からホッとしました。
私はお腹ペコペコで、夕食はぺろり完食でしたが、
赤木は半分しか手をつけず、早々と就寝。
赤木の体調次第で、この山小屋で、七合目半ばで断念する覚悟はしてました。
しかし翌朝、なんと赤木が「大丈夫、登る!」と言ったのです。
本来なら夜に出発し、ご来光を崇める時間までに山頂へたどり着くのが富士登山のセオリーです。山頂付近は、これまたひどい渋滞だと聞きます。
赤木の体調も万全ではないので、昼頃にかけて登頂を目指すことに。
ご来光は山小屋から拝めました。雲海を赤く染めながら昇りゆく朝日は充分、雄大でした。
さて、山小屋のチェックアウトはなんと! 6:00です。
荷物をまとめて、さぁ出発!
お互い体力も回復したし、頂上目指していこう!と張り切った私達に、富士山は容赦ありません。
吉田ルートはこの7~8合目すぎまで続く岩場が難関と言われます。
昨日の疲れも出たのか、出発1時間しないうちに、早くも体力は消耗してきました。
その頃は今と違い、日頃は全く運動をしてませんでした。体力不足がたたってか、少し歩くと私の息はハァハァ上がります。だんだん足取りが重くなりました。
「とりあえずアソコまでは登ろう」
気を取り直して、8合目の山小屋まで進んだところで、またまた悲劇が私たちを襲います。
赤木の高山病がぶり返したのです。
八合目半くらいの場所に、下山道に続く道が見えました。ここで断念するかどうか・・・二人とも迷いました。
あと1合半で登頂です。満身創痍で登り切るか、それとも・・・。
しかし高山病はこの先、悪化の一途をたどるとしか思えません。
もともと無理はしないと約束したので、苦渋の決断を下しました。下山道へと舵を切ったのです。
永遠につづくかのごとく長い、富士山の下山道。ただ、少しずつ木々が見え始めました。
下に降りるに連れ、空気も満ちてきて、赤木が元気を取り戻していきます。私を置いてスタスタ下っていきました。
下山道を歩くのは、富士登頂を終えた登山客ばかり。疲労困憊が顔に出てます。
声をかけあう気力もないですが、老若男女、国籍をも超えて、「みんな、がんばろーぜ」な連帯感に包まれました。
ようやく5合目、出発地点まで帰還できたときの安堵感。
42キロを終えたマラソン選手のよう、両手バンザイでゴールです。
私の初・富士登山。
赤木の高山病というトラブルに加え、私の持久力のなさが露呈しました。
ついでに、自宅に帰って2~3日は、ひどい筋肉痛が待ち受けていたのです。
今度登るときは、必ず登頂へ・・・
生きているあいだに「リベンジ富士山」したいなぁと気持ちはあるのですが。
準備の大変さ、背負う荷物の多さ、体力的な自信のなさ、関西からの交通アクセスの不便さと・・・
4重苦に阻まれ、二の足を踏んでます。
しかし、完全に諦めた訳ではなく、リベンジを果たすチャンスは訪れるかもしれません。
その日を目指して、とりあえずは筋トレに励みます!