華麗なるギャツビー
原作はF・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」で、本作品も含めて、既に5回も映画化されています。
「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で披露したお下劣なディカプリオもいいのですが、本作品の方が素直に「カッコいい~」彼を堪能できます(笑)
「僕の人生はこうあるべきだ。上昇し続ける」
ギャツビーのこのセリフが、ギャツビーの人生観を表しています。
食べていくので精一杯、そんな赤貧の家庭で生まれ育った彼ですが、その境遇を全く受け入れていませんでした。
”(自分は)神の子であり、栄光を約束されている存在だ”
そんな空想で自分を支えていたのです。
しかし、彼のすごいところは、空想で終わらせなかったことでした。
家を飛び出したあと、大富豪と出会って英国紳士の振る舞いを学び、裏稼業ながらも富を築いたのです。
大勢の著名人が息を呑むほどの豪邸まで手に入れたギャツビー。
そんな彼にも一つだけ、人生設計の中で足りないピースがありました。
5年前に愛を誓い合ったデイジーとのことです。
デイジーと会えなくなった間に、彼女は億万長者の妻となってました。
既に人妻となったデイジーとの再会を果たし、再度燃え上がった二人は結ばれるかのように思えたのですが・・
結論を言うと、デイジーはギャツビーではなく、夫とやり直すことを選んだのでした。
それまでの人生の中で、欲しいものは全て実現してきたとも思えるギャツビー。
最愛のデイジーさえ手に入れれば、人生はパーフェクトだったのかもしれません。
しかし、私は疑問を投げかけます。
望みどおりにデイジーを手に入れたとしても、彼は幸せを得ることが出来たのでしょうか?
「しばらくの間は満たされると思った。でも虚しかった。」
友人である隣人のニックに、ギャツビーがふと漏らしたセリフです。
富や名声を手に入れ、豪邸に住んでいても、本当のところは満たされることがなかったギャツビー。
だからこそ、デイジーとの純愛に人生を賭けたのかもしれません。
他の男性と結婚していたけれど、心の中ではずっとギャツビーだけを想っていた。
これが、彼が思い描いていたデイジーの姿です。
しかし5年後に再会したデイジーは、ギャツビーを忘れはしなかったものの、夫となった人をも愛し、夫の浮気に悩まされていました。
ギャツビーだけに一途だった、自分が描く悲恋のストーリーしかありえない彼は、彼女の本音に耳を傾けようともしません。
自分のイメージを満たす彼女しか、認めようとしないのです。
「デイジーを手に入れたとしても、彼は幸せを得ることが出来たのでしょうか?」
再び、この問いを投げかけてみますが・・・答えは言うまでもありません。
現実は、空想には勝てない。
たとえデイジーとギャツビーが結ばれても、5年もの間で熟成してきた空想ほどの喜びはもたらさないと思います。
一時的に喜べたとしても、夢にまでみたデイジーとの生活は、すぐに見慣れた日常へと色あせてきます。
現実では満たされない何かを埋めるために、別の大いなる物語(空想)を追い求めるのではないでしょうか。
本当の意味では、愛してはいない
オンナの直観で感じ取ったデイジーは、ギャツビーを選んでも幸せにはなれないと悟ったのではないでしょうか。
だからこそ、彼女のズルさを受け入れ、生身の人間としてみてくれる夫とやり直すことを、彼女は選んだのです。