GIFTED
映画のタイトルにある「ギフテッド」とは何か、と言いますと。
同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した才能を持つ子供のことである。
(出典:wikipetia)
天才的知能をもつ女の子・メアリーと、亡くなった姉の子供であるメアリーを男手一人で育ててきたフランクを軸とした物語です。
この子にとっての幸せとは何か?
子を持つ親なら、一度なりとも自問するでしょう。
7歳のメアリーは地元の小学校に通い始めますが、レベルが低すぎる学校の授業に辟易し、うちに帰りたいとダダをこねます。
高等な数式まで扱える子が、1+1は? から教えられるのですから・・・まぁ、無理もないですが。
メアリーの才能を見抜いた担任や校長は、天才児が集まる学校への転校をフランクに勧めます。しかし、養育者であるフランクは首を縦に振りません。
「娘には普通の人生を歩ませたい。」
同じく天才的数学者であった姉の遺志を、フランクは尊重していたからです。
そんなところに、フランクの母、つまりメアリーの祖母が突然現れました。
同じく数学者であった祖母エブリンは、メアリーは天才児にふさわしい環境で育てるべきだと主張し、フランクと親権を争うまでになったのです。
話が進んでいくなかで、メアリーの母、つまりエブリンの娘であるダイアンは、母エブリンから非常に厳格に育てられたのが明らかになります。
それが自殺の遠因になったのでは・・・と推察するほどに。
どの学校でも一人か二人は、頭一つほど抜きん出る賢い子はいるでしょう。しかし小学校1年生で、高等数学まで操れるメアリーの知能は、それらを凌駕しています。
普通の公立小学校では先生方も持て余すだけ。天才児に特化した環境でなければ、メアリーを知的面で満足させることはできないでしょう。
養育者であるフランクの意向次第で、備わった才能は、たちまち宝の持ち腐れになってしまいます。
果たして、ソレでいいのか?
フランク自身は口に出さずとも、葛藤で揺れていました。
母エブリンの英才教育のもと、普通の子供時代を体験できなかったのが、フランクの姉ダイアンです。どんなに天才的な才能をもっていても、それだけでは人は幸せになれません。
娘には自分みたいにはなってほしくない・・・姉が遺した無念は今もフランクの心を締め付けます。
娘ダイアンに無理を強い続けた母エブリンを、「毒親」と石をぶつけたくもなりますが。
しかしエブリンも、同じく苦悩を抱えていたのでした。
私は母と娘の関係を超えた責任を負っていたの。
世界を変えてしまうような偉大な発見というのは、ラジウムより貴重な頭脳なしでは生み出せないものよ。文明だって生まれなかったでしょうね、きっと。
多分に母親としてのエゴを含ませながらの発言でしたが、ある側面を語っています。
子供は社会からの授かりものとするならば、
抜きん出た才能を持つ子供が、自分の元に授けられた役割があるはずです。
授かったものを大事に育て上げ、きちんと社会に還元できるかどうか
その子が才能を発揮するかどうかで、人類の未来すら変わるかもしれないとしたら・・・
親である自分は、どれだけの責任を感じるでしょうか。
授けられたものの重みを理解するからこそ、エブリンは心を鬼にして接したのかもしれません。
普通の子より少し釘が出た程度の才能なら、いくらでも才能を伸ばすメソッドも見当たりそうですが。
出すぎた釘以上に突出した才能を どう育てたらいいのか
手放しで喜んでいいのかすら、皆目、検討がつきません。
模範解答がない問いを、親はさまよい続けます。
- 才能の犠牲にはならず、人として生まれ、当然味わうべき幸せを享受させた方がいいのか
- 普通の幸せを犠牲にしてでも、才能を思う存分伸ばした方がいいのか
- しかし天才ばかり集められた 隔離した環境のなかで育つのが・・・本当にこの子のためなのか?
- 才能を伸ばしたいというのは、単なる親のエゴではないだろうか。
同時に複数の思いが絡み合い、なかなか糸口が見つかりません。
- ごく普通の子に育てることにこだわったフランク
- 英才教育を施すことにこだわったエブリン
両者とも、自分の価値観に固執はしていますが。
表現の仕方はどうであれ、どちらもメアリーの幸せを願うことには変わりません。
しかし、giftedに限らず、子供というものは全て、社会からの授かりものであるのでしょう。
我が子とはいえ、私物化しがたい天才児という存在は、その事実を思い出させてくれるのかもしれません。