美談という名において

ある動画を観たのは、少し前のことでしょうか。

兵士だった人が、戦場で殺してしまった男性の娘さんに会いに行った場面が映しだされてました。

敵と味方に分かれて銃を向け合う戦場で起こったこととはいえ、人を殺してしまった罪の意識は一生拭いきれなかったのでしょう。

相当の覚悟をもち、成人になられた娘さんに謝罪に出向いたようです。
お互いに心を去来するものを抱えながらも、最後は抱き合いました。

私だったら、自分の父を殺した相手を許すことができるだろうか・・・
許しを乞う人も、長い年月どれだけ罪悪感に苛まれたのだろうか・・・。

様々な痛みが去来して、私の涙もどうにも止まりませんでした。
人間存在の崇高さに触れる一方で、私の中でささやく声がありました。

「見誤ってはいけない」

そもそも、なぜこの人達は許し合う必要があったのかということですが。

そもそも、のことが起こらなければ、縁もゆかりもない異国に住む二人は一生出会うことは無かったでしょう。

戦争

そして、一人の人間を命を奪ったという残酷な事実が引き合わせたのです。
動画で見かけた元兵士の方を責める気持ちは毛頭ありませんが。
美談を生み出したもの、戦争というものの本質を決してボカしていけないのです。

戦争や紛争の現場では、目を覆うような人間の醜態があぶりだされます。
その一方、悲惨な状況だからこそ、時として人間の崇高さも現れるのではないでしょうか。

戦争が生み出す数々の感動秘話は、あくまでも巨大な闇による副産物であることを、忘れてはいけないと思います。