ムーンライト
2017年度のアカデミー賞授与式。一度は本命視された「ラ・ラ・ランド」が作品賞に輝きましたが、なんと! 後になって訂正となったのです。
改めてオスカー像を手にしたのが、本作「ムーンライト」でした。
前代未聞のアカデミー・アクシデントは、まだ記憶に新しいでしょう。
人種、貧困、いじめ、そしてLGBT・・・そんなフレーズで語られることが多い本作。
中でも、セクシャリティが最もクローズアップされています。
確かに、男性同士の愛撫シーンがあります。
主人公のシャロンは「同性愛者であり、その葛藤を抱えてた」とみえなくもないのですが・・・。
「ほんとうに そうなのか?」
私は、疑問が拭えませんでした。
本作は、シャロンの子供時代、青年時代、成人時代と、3つの時代で構成されています。
シャロンのセクシャリティがはっきりと表れるのは、青年時代でした。
子供の頃から同級生たちにいじめられ、高校時代も相変わらずですが、幼い頃からの友人・ケビンだけは、常にシャロンを気遣ってくれたのです。
そして・・・寄せては返すさざ波と、青い月明かりの夜にソレが起きました。
シャロンとケビンはお互いの身体をまさぐりあったのです。
月日は流れて、成人時代。
大人になったシャロンは故郷を離れ、かつての線の細さは見る影もありません。
筋肉隆々でにらみをきかせ、クスリの売人として生計を立ててました。
そんなシャロンの元に、一本の電話が。
長い年月を経て、シャロンとケビンは再会を果たしたのです。
すっかり変わり果てたシャロンの風貌に、ケビンは戸惑いを隠せませんが。
シャロンの瞳に宿る透明感だけは、失われませんでした。
「俺はお前に触られて以来、誰にも触られていない。」
頑なだったシャロンの心が開き、誰にも言えなかった胸のうちをケビンに告白したのです。
そして・・・ひとすじの光が指すエンディングへと導かれましたが。
シャロンの子供時代に、こんなシーンがありました。
「faggot って何?」
容赦のない同級生たちは内気なシャロンに対して、侮辱的な言葉を投げかけます。
faggot。
シャロンを気にかけてくれる男性ホアンに尋ねたところ、一呼吸おいて真摯に答えてくれました。
「オカマ(faggot)ってのは,ゲイのヤツらに不快感を与える言葉だ。」
さらに会話は続きます。
「僕はオカマ?」
「いや、違う。もしゲイだとしても、オカマなんて絶対に呼ばせるな」
「(僕はそうなのかどうか)どうやったら分かるの?」
「自分で分かる。たぶんな。」
オカマなのかどうなのかか--
自分のセクシャリティに思い当たっての疑問ではありません。
問いの発端は、あくまでも同級生たちから「faggot(おかま)」と囃し立てられたことでした。
さらに彼らは揶揄したのも、シャロンの内股気味の歩き方であって、セクシャリティからではありません。
年齢的にも、男性の方が好きだとかどうかなんて、まだ意識したこともないのでしょう。
そこで、私の疑問に戻ります。
果たして、シャロンはゲイなのでしょうか?
もちろん同性同士の行為に喜びを感じるのですから、その傾向はあります。
しかし、触れ合ったのはケビンとだけでした。
異性を愛するからヘテロ(異性愛者)、同性を愛するからゲイ・レズ(同性愛者)
つい分かりやすく二分しますが。
セクシャリティは全て、AかBかで分けられるとも限らないようです。
デミセクシュアル
この言葉を最近知りました。
欧米を中心にセクシャリティへの理解が進んだ結果、異性か同性かだけで、セクシャリティに判断がつかなくなったようです。
「(異性、同性問わず)強い感情的な絆がすでに築かれている関係の場合にのみ、人に対して性的に惹かれる」
これがデミセクシャルの特徴です。
もし普通のゲイであるならば、ケビンと別れた長い年月の間に、誰かと触れ合ってもおかしくありません。
しかもケビンは日常的に、客である男性と接する仕事です。
下っ端からは一目置かれる存在でしたし、相手には困らないでしょう。
これは私見ですが。
シャロンは興味を沸かなかったのではないでしょうか。
強い感情的な絆が築かれている人
それがたまたま男性であっただけで、愛する対象に男女の区別は無いのかもしれません。
「その時がきたら、将来のことは自分で決めろ。他の誰にも決めさせるなよ」
父のように慕っていたホアンが、シャロンに告げる言葉です。
ゲイの主役となると、大多数を占めるヘテロの人は、自分とは違う世界の人の話しに思えますが。
同性を愛するからゲイ。そんな世間の枠を外してみると
ただ一人の人間を愛する、愛し続ける、それがシャロンなのです。
人生のなかでその時がきたら、誰もが自分を決めるのでしょう。