幸せは生きている間だけが全て?
先日、1988年に公開されたフランス映画「カミーユ・クローデル」を観ました。
カミーユ・クローデルは、フランスが生んだ偉大なる彫刻家ロダンの女弟子です。
ロダンに類まれな才能を見出され、弟子として、ロダンの作品づくりを支えていきます。
狂気と紙一重で、そこへのキーを持つ者しか入れない世界
そこで見て、聴いて、触ったものを、彫刻という形で二人は表現していくのですが。
世界でたった一人、そこに通じ合うもの同士が激しく欲しあうのも時間の問題です。
若く美しいカミーユに強く惹かれる一方で、ロダンは長年連れ添った妻と離れることも出来ません。
カミーユは妊娠、流産の末、ロダンに見切りをつけたのです。
しかし、あの世界のきずなが絡みあった人への情愛を断ち切ることができませんでした。
その上、せっかく作品を発表してもロダンの模倣と揶揄されます。
「あなたにすべてを捧げ、もらったのは虚無・・・・」
完全に行き詰ったカミーユは、徐々に精神を病んでいくのですが・・・。
「才能は、姉を不幸にしただけだった。」
カミーユの弟ポール・クローデルは、荒みきった姉に悲しみを湛えながら言うセリフです。
作品も評価されない上に、死ぬまで30年もの間、精神病院で暮らすこととなったカミーユ。
彼女の生涯は、一般的には「悲劇」と表現されています。
しかし生きている間だけで、幸か不幸かの審判が下されるのでしょうか。
映画を観る前に、偶然ネットでカミーユの代表作である「分別盛り」の写真を観たのですが。
彫刻には門外漢の私でも、写真だけで鳥肌が立ちました。
ちなみにカミーユの彫刻は、ロダンの遺志で、ロダン美術館の一室に飾られています。
愛しあい憎しみ合った二人ですが、彼女の才能を誰よりも知り抜いていたのは、やはりロダンでしょう。
近年になって、彼女の才能が正当に再評価されつつあります。
彼女の作品はフランスから遠くはなれた場所で、写真を観ただけの私にさえ伝わるものがあるのです。
もし魂というものがあるのなら。
穏やかな幸せな人生を望むなら、カミーユを選ばなかったでしょう。
たとえ持て余すほどの才能に右往左往する人生だとしても、カミーユを選ぶ魂があります。
彼らが望む「至福」は、時空を超えた場所にあるのかもしれません。