幸せとは計り知れないもの

以前、尊厳死の問題に取り組んでいる人に聞いた話なのだが
筋萎縮性側索硬化症(ALS)のような難病で寝たきりになった人たちに
「あなたは、いま、幸せですか?」
と尋ねると、意外なほど多くの患者が(たしか8割以上と言っていた気がする)
「幸せだ」
と答えるのだという。
個々の人間の幸福感や満足感は、本人にしかわからない部分を多く持っている。

引用:日経ビジネスオンライン 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明より
そもそも、人間の幸福度を、他人が判断することはできない。

幸せとはこういうものだ - そこに絶対不変の答えはありませんし、人によっても異なるはずですが。

誰と話してもある程度は通じ合える、そんな共通認識はありますね。

上記の記事が示す「幸せ」というのは、共通認識内におさまる「幸せ」とは恐らく違うのでしょう。

その色合いや肌触りは、かなり独自性があるのでしょうが。

砂糖を舐めたことがないひとが、砂糖の甘さをいくら聞いても分からないように

経験や体感でしかつかめないものでしょうね。

 

最近、知人とじっくり話をしたときのことです。

話が深まったこともあり、思いの丈をツラツラと語っていたのですが。

私が口下手なせいもあり、核心のところが上手く伝わらなかったのです。

「あぁ・・・この人には認めてもらえないんだろうなぁ」

そんな思いが、重低音を響かせました。

しかし・・・そのあとです。

「それでいい」と、心の泉から音もなく湧き上がってきました。

さらに、不思議なことに・・・。

あぁ、幸せだな・・・おごそかで静謐な肌さわりに包まれたのでした。

いつも感じる「幸せ」感とは違って、快感が伴わない、素朴なものでしたが。

あえて言葉にすると、認める・認めないを超えた何かにフト触れた感じでした。

理由を聞かれても分かりませんが、やはり「幸せ」という言葉がフィットするのです。

 

幸せというのは、私達が思っているよりももっと変幻自在なのでしょう。

思ってもみないもの、発掘されるべきものが、まだまだ在るのかもしれません。

それには「幸せ」に張り付いた固定観念、固定した感覚から解放されなければならないのですが。

私もまた違う状況で、想定外の「幸せ」と鉢合わせするのかもしれません。

そのためにも、ドアはいつでも開けておきたいですね。