傲慢になることを恐れない

自分のダメさ、出来なさに薄々気づいてたとしても・・・

心から認め、白旗を上げるのは言うほど簡単ではありません。

無能の烙印を押すのは、屈辱的ですから。

ただし、です。

逆に「自分は有能である」なら、喜んで受け入れられるのでしょうか。

私はそうは思いません。

むしろ「自分は有能である」ことを認める方が、よほど難しいのではないでしょうか。

 

大なり小なり、誰もが人より秀でる能力をお持ちです。

時には能力を買われて、抜きん出た立場に立つこともありますが。

「みんなのおかげで・・・」
「私なんてまだまだ・・・」

人前ではつい、枕詞をつけてしまうのです。

 

自分の有能さを見ていく際に、影のように寄り添う存在があります。

「傲慢さ」

自らの有能さを認めることと、傲慢であることは本来は別なのですが。

両者を結びつけて考えがちですね。

この程度で有能と思うのは ただの驕りではないか・・・

有能さを態度に出すと、冷ややかな視線が返ってこないか・・・

「傲慢」という実体のないモンスターに、振り回されます。

 

多くの人をみてきましたが、「私ってすごい」意識を保ち続けられる人なんて、殆どいません。

何よりも、人から「傲慢だ」と思われて平気な人はいるでしょうか。

私も経験はありますが、赤の他人から「そんな程度で」と薄笑いされると、恥が爆発します。

第一、自分でも有能さに確信が持ちきれないでしょうし、いかなる場面でも発揮できるとは限りません。

謙虚にふるまう方が無難なのですね。

自分なんてまだまだ・・・と言っておいた方が、周りのウケもいいですし。

失敗したときも、ビックマウスよりは言い訳がしやすいでしょう。

 

ただし謙虚さも行き過ぎると、弊害がでます。

まだまだですから・・・。私なんて・・・。

人にも言って、自分にも言い聞かせることは、潜在意識に影響を与えるからです。

傲慢になる前に、傲慢を恐れてしまい

出る杭をたたくのは自分、ということになりかねません。

ギフトという言葉には、(天から)与えられた才能 という意味もあります。

才能が天から授かったものならば、存分に活かすことが責任ではないでしょうか。

 

自分の有能さを心から受け入れたとき、そうであって当たり前に思えたとき

はじめて、その有能さはもう特別なものではなくなるでしょう。

それは、自分ひとりの能力の発揮に終わることではありません。

他人の有能さをも、当たり前のように尊重できるからです。

傲慢をむやみに恐れず、有能さをまっとうに認めることが

出る杭をどんどん伸ばす社会へと繋がるのではないでしょうか。