他人という名の問い
私にとって他人とは何だろう・・・そう考えてみる機会がありました。
相手は自分である、自分の写し鏡など、さまざまな表現をする人がいますよね。
それはソウだと思いますが、私なりの表現は別にあります。
毎日毎日、自分以外の人々のさまざまな振る舞いが、目の前で飛び交います。
やりとりを通して、言動や感情をぶつけてくる人もあれば
その人の在り方に触れ、感化されることもあります。
またニュースを通して、罪を犯した誰かのすがたも目にしますね。
それらは私の心を揺さぶり、喜怒哀楽を巻き起こすのです。
だからあの人はね・・・と彼らを遠巻きにして、解釈する気持ちがせり上がってきますが
そこを小脇に置いて、彼らのふるまいに真摯に向き合うと・・・静かだけど厳然たるものが返ってきます。
あなたはどうなのよ?
そう、目の前にいる彼らは、私に対する「問い」なのです。
私に向かってくる言動、ぶつけてくる喜怒哀楽、伝わってくる価値観や言動を通して
常に揺さぶりかけ、多種多様な反応をひきだすのです。
私はなぜ、そんな反応をするのか?
私の何を、彼らは映し出しているのか?
そこから、私に何を学べと言っているのか?
私には相容れない彼らが、もし同じ穴のムジナだとすれば?
彼らは私の過去のすがたなのか? 未来なのか?
日々、他人のふるまいを通してさまざまな問いかけが、私の目の前には差し出されます。
そこに私の価値観や考え、大切にしているもの、嫌悪しているもの、そして可能性を見いだすからです。
そして、私もさまざまな振る舞いの中で、他人に問うていく存在です。
つねに働きかけてくる問いに対して
誠実にひとつひとつ応じていくこと
それが人生というパズルを解くことではないでしょうか。