悪口は百害あっても一理はある

外出先からのひと休み、一人でカフェに入ったときのことです。

ゆったりと本を読み、静かな時間を楽しむ・・・そんな目論見はあっけなく、右側から崩れていきました。

すぐ隣の女性グループが声を荒げながら、ある話題で燃えていたのです。

年代がややバラける彼女たちは、どうも同じ職場同士のようで。
距離的にイヤでも耳に入ってくるのですが、職場のボスだかお局さんなのか、とにかく特定の誰かへの不満、愚痴、悪口に血道をあげてました。

ねぇねぇ~・・・でしょう? そうそう!! そうよねぇ~。
そのボスが何も分かってなくて、私たちはどれだけ被害を被っているか。

誰か一人が話し出すと、その場にいる人たちが首をブルンブルン縦にふります。

頬を上気させエキサイトする姿から窺えるのは、私たち困ってるのよね~だけではありません。

それとは裏腹な、甘美なものも漂ってました。

 

人の悪口を言うこと。

あえて損得の面から語っても、正直リスクが高いです。

人が悪口を言ってる姿をみると、こんな風に人を悪く思うんだぁ~、あぁ自分も陰で言われるのかなぁ~と警戒心を持ちますよね。

同意を求められても応えられず、そうなるとバツが悪いのか、相手はあの手この手で正当性を訴えます。こちらとしては相槌うつしかありません。

また悪口を言うときの顔って・・・美容の面でも逆効果です(笑)

そもそも自分がされるのはイヤな事ですから、言わない方がいいに決まってます。

しかし、困ったことですが・・・良くないとは分かっていても、つい手を出してしまうのも人間です。

なぜなら百害あっても、一理があるからです。その一理が媚薬だったりします。

 

胸に秘めていた悪口、愚痴、不満のウラには、痛みがあります。

その痛みを分かち合える誰かと出会えたらどうでしょう。

いつも以上の連帯感が深まるし、自分だけでは無かったという安心感も得られます。

絆とか、つながりというと言葉は美しいですが、ネガティブなきっかけでもそれは得られるのですね。

特定の誰かや、何か(例えば◯◯反対運動とか)を敵に回した結びつきは、ものすごい磁力があります。

冒頭でお伝えしたグループの女性たちは、まさにそうでした。

目的はどうであれ、共感や結びつきを実感できるのは、ものすごい快感ではないでしょうか。

 

共感自体は良いものとされていますし、非常に”快”をもたします。

そして人生には、絶対に”快”は不可欠だと私も思います

ただし、何事にも二面性があるのがこの世のセオリーです。

潜在意識、もしくは本能はその内容を選別できず、”快”を求めてしまうのでしょうか。

”快”は手段を選ばないことがある - そう認識しておいた方がいいかもしれません。