憎しみはめんどうである

ちょっとした人間関係の行き違いから、怒りが高じて憎しみへと移り変わっていく。

そんな経験はないでしょうか。

特に、信頼を寄せていた人に対して、失望や裏切りを感じたとしたら・・・。

信頼の度合いが大きければ大きいほど、半端なく燃えたぎってしまいますよね。

犯罪とかではなく、もう少し身近な出来事のゴタゴタは、憎しみへと飛び火する前に、多少の猶予期間があります。

ならば、怒りの段階でどうにか沈静化しておいた方がベターではないでしょうか。

あとあとのメンドーまで考えると・・・。

 

憎しみという感情は、なかなかのクセモノです。

当然ながらですが、この感情は居心地がよろしくありません。

だいたい、身近にある人間関係で100対0というのはほぼ無くて、自分にも多少の非があることは分かってますし。

相手にも、そうならざるえない事情があるでしょう。

さらに、周りからは「善きひと」に見られているひと、そういう立場や職業の方ほど、自分が憎しみを抱いている、その事実じたいが不愉快です。

恥やバツの悪さもモレなくついてきます。

後ろめたさの不快感が半端じゃないからこそ、反転して、憎しみが強く出てしまうのではないでしょうか。

 

自分は決して間違っていない、そう思いたい。

正当化の位置をキープしてしまうのも、仕方がないのかもしれません。

しまいには、第三者に理解をもとめてしまうのですが・・・。

厄介なことに、一度、おおやけに立場をとってしまうと、自分からはなかなか降りにくくなってしまいます。

長引けば長引くほど、めんどくささが増してくるのですね(笑)。

とは言っても道徳的に、感情を言い聞かせるのは難しいかもしれないので。

ここはあえて冷静に、損得勘定してみると・・・結論は明確です。

どう考えても理不尽だとしても、現実はドラマ半沢直樹のようにはいきません。

さらに恨みが晴らせたところで、そこに至るまでに費やした、炎を燃やし続けた時間は返ってこないのです。

マイナスが消えただけで、自分の幸せには何のプラスにもならないでしょう。

 

一度、燃え広がってしまうと、なかなか鎮火できません。

だから、最初が肝心なのです。

種火のうちに、可能であれば鎮静化させておくほうが、あとあとのためではないでしょうか。