どこまでも無関心であることの癒やし
「富士山に登りたい」
初めて、その思いが宿ったのは20年前。
その当時は実現しなかったのですが、時は流れてこの夏、ようやく日本の霊峰に向かうことになりました。
登るからにはてっぺんを目指したのですが、8合目半ばで断念。
”行”のように黙々と、下山道を歩き続けた私でしたが。
「こんなに・・・こんなにも・・・シンドイと・・・思わなかった・・・。」
疲労が積み重なり、泣き言ですら息が切れました。
詰め込みすぎたリュックに、悲壮感がずっしり食い込みます。
出発地まで戻ってきたときは、文字通り「疲労困憊」でした。
もうコリゴリ、二度と行きたくないと思っても不思議ではありませんが。
決して、そうではないのですね。
ツンデレのかぐや姫を追うがごとく、一方的に乗り込むひとたちが絶えないのですが。
富士山は全くもって、人に優しくありません。
標高3000メートル前後になると、とたんに空気が薄くなり息苦しさが増します。
水もありません。砂まじりの風は容赦なく、身体にぶつかってきます。
森林限界を超えると植物が生えず、砂漠のよう、寒々とした赤土だけが広がるばかりです。
まるで、生と死の臨界点に佇むようでした。
「人の命なんて、知ったこっちゃない」
乾いた空気が漂うなかで、どこまでも無関心で素っ気なく。
それが・・・不可思議なところですが。
湿り気のない無関心さが、妙に心地よいのです。
とくに拒絶もしないけど、迎え入れもしない。
どんな生物どんな人間であろうと、関知しない。
どこまでもフェアで、どこまでもジャッジメントがありません。
その場にいる者一律すべてに、ご来光の温かさがもたらされますし。
人が通ろうとおかまいなく、登山道に向けて石が転がっていきます。
地表では我がもの顔で闊歩している人間も、荒くれた自然のもとでは、一網打尽に命を奪われます。
自分なんてちっぽけで、取るに足らない存在なのだ-
富士の山肌に身をおくと、単なる事実として受け止められるのです。
自分を大切にする - それは生きる基盤として非常に大切なのですが
いつしか過剰になっていたのかもしれません。
自分なんて どこまでもつまらない存在だ
しょせん塵のように 吹けば飛ぶようなモノなんだ
心から実感できたときに生きる気力を取り戻した、そう語るひとを何人か見聞きしましたが
その一端を、富士山の無慈悲さから感じ取った気がします。