悟りはひらいていないけれども・・・

先日、緑の木々を眺めていると、たくさんの新葉が芽吹いているのに気づきました。

まだこの世に顔を出したばかりの黄緑色は、いのちに満ち溢れていたのです。

そして、こころのなかで、アッと声を上げました。。

「彼がここに宿っている・・・。」

 

昨年の10月に、大切な友人が天命をまっとうしました。

穏やかでひたむきな彼の存在を、目の前のまぶしい新緑に見出したのです。

あぁ いのちが、この新葉のなかに宿っている・・・

ここだけではなく、この世界のすみずみに・・・と。

 

悟りをひらいた体験を語る人のなかに、こんな表現することがありますよね。

 あの山も あの河も 

 目の前のコップも 窓ガラスも全部

 わたしなんだ

理屈をはるかに超えたところで、そう実感したとしか言えないのでしょう。

(ある意味、物理学でも証明できると聞いたことがあります)

私は悟りの体験が(明確には)ないので、分かったようなことは言えませんが。

さっぱり分からない、というのも違う気がします。

 

「今、いのちがあなたを生きている」

京都の東本願寺の前を通ったときに、目にしたメッセージです。

 

私たち人間が、肉体に宿った命を使って生きている

普通はそう考えますし、私も疑ったことなど無かったのです。

しかし、最近は少しちがった思いも生じてきました。

いのちが 私たち人間をつかって、生きているのではないのかな・・・と。

 

水が気体や固体へと変わっていくように

いのちもすがたを変えるとしたら

世界中を覆いつくす海水や 世界中を自由に旅する風のなかではなく

あえて肉体という固体、制限のなかに身をおくからこそ、

いのちは、それ独特の体験が出来るのかもしれません。

 

もしいのちが、数あまたある肉体のなかで、わたしを選んでくれたのだとしたら

世界でたったひとつしかない 個体をとおして

何をみようとしているのでしょうか。

何を託しているのでしょうか。

それこそがまさに、ミッションに繋がるのかもしれません。