羨望や妬みはクッションの埃のごとく

友人・知人たちの華々しい活躍をみるとき

正直に言うと、心から喜べるときばかりではありません。

羨望のまなざしが、時として色濃くなることもあります。

「羨ましいと思うのは、自分もそうなる可能性をみたとき。」

そうポジティブに意味付けをしたり

「羨ましいと思う暇があったら、自分も努力すべし」

自分への叱咤激励のチャンスに使うこともできます。

 

ただ私は羨望の気持ちを何かに変換すること、今はありません。

そもそも、羨望、ちょっとした妬みや嫉妬、それらがなぜ心に浮かび上がってくるのでしょうか・・・

私は、防衛反応だと思うからです。

セコムが危機を感知して、アラームを鳴らすがごとく。

他者が光輝いてみえるとき、それと対比して、自分がみすぼらしく見えることはないでしょうか。

そんな風に思ってはいけないと否定していた時期もありましたが、その嫉妬めいた気持ちをつぶさに観察してみると。

自分を守ろうとするとっさの動きが、単に作動しているだけなのですね。

クッションを叩けば埃が舞うかのごとく、心にわ~っと広がりますが、やがては静かに消えていきます。

一瞬で鎮まるときもあれば、やや長引くときもあります。

特に心身どちらかが疲れ気味のときは、糸を引く傾向があります。

いずれにしても、目に映る他者がどうであろうと、本来は関係がありません。

その時の自分の状態によって、自分を脅かす存在と見做してしまうかどうか、セコムが作動するかどうかだけでしょう。