みなと違うと、求められる
「もうそろそろ、スマホの方がいいですよ」
「えっ、まだガラケーだったの!?、意外」
先日、友人がFacebookの投稿で「ガラケーが壊れた・・・」と呟いたのですが、他の友人達の(Facebookのコメント上での)反応がコレです。
私の周りを見渡しても、いつの間にかガラケーは少数派となりました。
このご時世に、その友人はあえてガラケーを選んでいます。
その理由に私はなるほど!と思いましたが、スマホ派はそれでは引き下がりません。
一連のやりとりをネット上で眺めていて、つくづく感じました。
「少数派って、面倒なのよね。」
以前、独身の友人に話の流れから、「結婚はどう考えてるの?」と私は尋ねたことがあります。
「今は特に考えてないけど、いい人がいたらね!」
ゼロコンマの勢いで、うんざり感とともに定型化された答えが返ってきました。
数えきれないほど質問されたのでしょうね。
私も30代前半で結婚する前はさんざん訊かれたので分かります。
あーっ、またかと適当に答えてましたが。
結婚後に「なぜ結婚したの?」と聞かれることは皆無です。
それで終わりかと思えば、そうは問屋が卸しません。
結婚から出産まで、私は5年のスパンがあったのですが、時折訊かれました。
「子供は?」
多数派とは違う動きをすると、どうも説明する機会が増えるのですね。
通常の学校法人ではない学校に子供を通わせている友人
色々と調べて 子供への予防接種を見送っている知人 などなど
けんめいに説明している姿を何度もみました。
「みなと同じ」は安心感とともに、一種の説明責任? その面倒さから解放される側面はあるのでしょう。