生身の自分 そして観察する自分

まだ私が実家にいた頃のこと。

「もぉ早く、このシーンが終わらないかなぁ」
レンタルビデオ鑑賞中に濡れ場が出てくると、近くにいる母の存在がチラチラ気になったものです。

若き日の匂い立つような思い出は、市川由衣さん、池松壮亮さん出演映画(R-15)「海を感じる時」で蘇りました。

主役の恵美子は高校時代、新聞部の先輩である洋にキスを迫られます。

「決して君が好きな訳じゃない。ただ、キスがしてみたい」

「女の人の体に興味があっただけ。君じゃなくてもよかった」

えっ、それ言っちゃうの?

自分勝手な言い草に呆れつつも、バカ正直さに清々しさすら感じましたが。

密かに洋を思っていた恵美子は、「体の関係だけでもいい」と会うたびに、自ら体を差し出すのでした。

時代背景は70年代、今よりずっと性は保守的でしょう。

「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ~。」

山口百恵のヒット曲が象徴するよう、女性が身体を許す意味はもっと重いはずです。

自分の存在を全てかけて、洋に体当たりする姿はまるで

特攻隊・・・いや人間魚雷か。

スクリーン向こう側の私にも、容赦なくブチ当たります。

 

生身の自分と、それを観察する自分

日々の出来事を体験する際、同時に二人の自分がでてきます。

「女の人の体に興味があっただけ。君じゃなくてもよかった」

好きな人にそんな風に言われたら・・・

生身の自分も傷つきますが、そんな扱いを受ける「自分というもの」に耐えきれなくなります。

しかし、恵美子は違いました。

自分がどう思われるかなんぞ 眼中にないかのよう

生身の自分のまま、体当たりするのです。

 

「私って◯◯な人だから~。」

「こんなことをしている私って、ダメな人だわ」

客観視するということは、生身から、自分を引き離すことでもあります。

生身の自分がまともにぶちあたる感覚、そこから距離を置くことで、生々しい衝撃からは守られますが。

「こういう自分」のイメージやストーリーへ逃げる行為とも言えるのです。

若き日の恵美子の生傷は、こころを血で染め上げるごとくヒリヒリします。

自分を大切にしなさい、そう説教じみた気持ちにもなる反面

ある種の潔さ、眩しさをも感じたのでした。

 

「負けたくないというよりも、自分が負けるのを観たくない」

保育士さんが最近の園児の傾向として語るほどです。

観察者の自分を育てるのも、生きていく上で大事なことでしょうが。

生々しい「生」の感触を置き去りにしたままになります。

生身の自分と、それを観察する自分

どちらかに偏りすぎることなく

冷静に見つめる自分を保ちつつ 生身の体験に飛び込んでいくことで

生きることは、ストーリーから そのものに変わるのではないでしょうか。