人の善意を素直に受け取れないのは
病院の診察待ち時間の長さには、本当にうんざりしますね。
我が母の通院に付き添いながら、いつ呼ばれるか分からない時間を持て余してました。
母は、昔からの知人Aさんとばったり出会い、病気ネタに花を咲かせてます。
Aさんは柔和な感じでした。しかし会話のはしばしに、うがった視点が入り混じるのです。
「あの人は訪問さえすればいいと思ったのか、わざわざ花を持ってきてくれたけど、」
「入院したときはお見舞いを送ってくれたけど、長男やから義務って感じだしね。」
聞くともなしに聞いていた私は、心のなかでつぶやきます。
「そんなん、素直に好意を受け取ればいいのになぁ」
その一方で、気持ちも手に取るように分かるのです。
一つの行為のなかでも、あらゆる思いが含まれます。
例えば、お見舞いの場合です。
本当にその人を心配し、励ましたいと、心を寄せる一方で
忙しいのになぁ、でも行っておいた方がいいだろう・・
本人には面と向かって言い難い気持ちも、微妙に入り混じることがあります。
その時 その場 その人によって変わるでしょう。
愛情、心配、打算 などの比率が。
「あぁ、私のためにわざわざ足を運んでくれてありがたい。」
この人は優しい、本当に良い人だと心から信頼したい一方で。
信頼を裏切られることは、残念ながら起こりうるからです。
「あぁ・・・こんな人だったんだぁ・・・。」
その衝撃は、ときとして人間不信にまで陥れます。
見抜けなかった自分への蔑みとともに。
後から痛みに苦しむくらいなら、「人ってこんなもの」と保険をかけたくなるでしょう。
私が勤めていた頃の同僚で、事あるごとに、人の裏面を読み取ろうとする人がいました。
なんでそこまでネガティブに人を見るのだろう・・・と当時は不思議でしたが。
後からダメージを被らないため、その人なりの戦略だったのでしょうか。
「でも、わざわざ見舞いに来てくれるって、ありがたいよね」
「いやぁ、行けばいいっと思ったんでしょう。」
ポシティブに捉えなおそうとする母を、頑なまでにネガティブに捉え直す知人の方の姿をみて
「その人なりに、ご自身を精一杯守っておられるんだなぁ・・・。」
かつての同僚、いつかの自分が重なり、心でねぎらっていました。
人間の習性、やるせなさを理解していくなかで、
無理に好意的に思わなくとも
人の善意をうがってみてしまう方の気持ちに、寄り添っていきたいですね。