正しさを超えた場所で

意見や利害が対立する人であっても、その人の本心を理解したい、腹を割って話し合いたいなぁと思うことはあります。

確かに自分の中では、自分の意見が正しくて、相手こそ間違っているようにしか見えませんが。

それでも心のどこかで、自分が絶対的に正しい訳ではない、そのことは分かっているからです。

 

対立関係にある人とも虚心坦懐に話し合い、お互いの理解を深めること。

確かに、たやすくはありません。

価値観や信念で彩られた自分の世界を通して、相手を観ている限りです。

自分から相手を観ると、例えば「(相手は)無理している」と解釈します。

相手も自分に対して、例えば「自分の意見を押し通そうとしている」と解釈するかもしれません。

分かってもらえない、伝わらないと無念を抱きながら、何とか言葉を尽くして分かってもらおうとあがく訳ですが。

こういった試みは往々にして、苦い後味を残して終わっていきます。

お互いがお互いの”正しさ”に固執している限り、理解しあうことは難しいでしょう。

分断された二つの世界は、交わる機会を失ったままです。

 

もし、冒頭で言ったように、お互いが垣根を超えて理解しようとするならば、

どちらか一方の世界に、どちらかを引きずり込もうとする姿勢では成し遂げられません。

相手を思っての善意からであっても、「分かってもらおう」という気持ちは手放す覚悟がいります。

自分たちを守り抜いていた世界を超えていかなければ、真のことばには触れられません。

正しさの壁を超えた場所で語り合うことが ”対話”ではないでしょうか。

私はそう思います。