好きな人物なんていないかも
「あなたが好きな人物を5人くらい選んで、その用紙に書いてください。
その人のどこか好きなのか、理由も一緒に。」
ここ1年の間に参加したセミナーかワークショップで、こういうワーク(演習)がありました。
これまで出会ってきた人々、様々な顔を思い浮かべているうちに、5人くらい、あっという間に埋まりそうですよね。
しかし改めて問われると、私には意外なほど難しくてガクゼンとしました。
「えっ、私って好きな人物がいないのかも・・・」
好ましいと思える人物を問うワークは、けっして初めてではありませんし。
むしろ以前はスラスラ~と名前をリストアップしてたのに、どうして筆がとまってしまうのか・・・
ただ、以前と今とでは、ひとつ違いがあります。
以前はあらゆる人たちのなかで、「好き」がよりクッキリとしていました。
- 人として尊敬できる。あんな考え方できるのってすごい。
- 他人に対する思いやりが半端ない。
- いつ会っても、話しが盛り上がる などなど
好ましい要素はさまざまです。
ただ、「好き!」と思える人には、どこかで全人的なものを求めていました。
欠点なんぞ見当たらないか、あっても気にならない程度であるかのごとく。
ただ、当たり前といえばそうなのですが。
どんな人であっても、いついかなる時も良い面だけではいられません。
影の部分を目にしては、失望したことは数知れずです。
「あんな人とは思わなかった・・・」と、。
そう主張したいのも山々ですが、それは私の観方が偏っていたに過ぎません。
1人の人間は多彩なカラーを持つ、立体的な存在です。
たまたま好ましく思えた面だけを「その人全て」と捉えるのは、どこかで無理が生じます。
少し客観的に、立体で観てみると、当たり前のように光と影が浮き彫りになるのです。
この面から観れば、非の打ちどころがない。
しかし別の面から観ると、とたんに短所に変わる。
そんなことはよくありますよね。
「良い人も悪い人も 本来はいない」
時間はかかりましたが、様々な人たち、そして自分自身の清濁併せ呑むなかで、やはりそれしか辻褄が合わなくなってきたのです。
「この人が好き!」「この人、何だか苦手」 から
「この人のココが好きだなぁ」「この人のココは苦手」 へ
「好き」というのが、人ではなく、部分で思うようになるにつれて
人単位での「好き」「嫌い」があいまいになってきたのです。
好きな「人物」を選べなくなった理由は、ココにあるかもしれません。