特別は、特別じゃない
先日受けたセッションのなかで、コーチ(と言っていいかな)の言葉です。
そもそも私は、ちょっと特別ともいえる体験をして、大きな気づきがありました。
自分のなかでは変容を感じた出来事ともいえたのです。
しかし、そのことを話したある方からは「特別意識を持ちすぎ。そんなの普通の人も体験している。」と激しくたしなめられました。
恥ずかしながら、私のなかで特別意識が大きくなっていたのは事実でしたので、そこを指摘して下さったのはほんとうに感謝です。
「特別なことじゃないんだ。誰にだってあることなんだ」と、いい気になってた自分を反省しましたが。
どうしても、若干の違和感は拭えなかったのです。
よくよく考えてみても、「誰にでも体験ある、普通のこと」とは思えません。
それどころか、「特別なことじゃない。誰にだってある」と無かったことにすることで、余計にはびこる気がしてならないのです。
謙虚の皮をかぶった特別意識が。
そうなると、他の人の「特別意識」も許せなくなります。
冒頭のセッションでそんな話をしていたところ、コーチが言ってくれたのです。
「特別は、特別じゃないよね」
何かの拍子で、普通とは違う特別な体験が起こること
それは誰しもが体験しうる機会はあるでしょう。
そういう意味では、何も特別ではないかと思います。
ただ、その体験そのものが「特別」でも何でもないのとは違うのです。
同じ体験、同じ気づきを誰もが持っているとは、私には思えません。
そういう意味では、「特別」なのです。
ただし、ソレ以上でもソレ以下でもありません。
ただの「特別」が在るだけです。
「特別だ」と持ち上げたり、不当に引きずり下ろすことで、「特別」をこじらせるのではないでしょうか。
ゆがんだ平等意識が、特別意識を生み出す
どこかで聞いた言葉ですが。
才能であれ、発想法であれ、何であれ、
誰かのなかに、ときには自分に「特別なもの」を感じたとしても
上下左右にいじらず、そのままの姿で向き合える「強さ」を持てたらいいなと思います。