世がコロナで大きく変わるまだ前のこと…..
ふと手に取ったコーヒーカップの冷たい感触にヒロは
オフィスの時計がとうに11時を回っていたことに初めて気が付いた。
「ふぅ~なんだかなぁ」
溜息交じりの独り言を漏らしてから思わず周りを見回したが、
ヒロ以外はみな引けてしまって、広いオフィスには誰も見当たらなかった。
ひとけのないオフィスは、
普段なら電話のベルやスタッフの喧騒にまぎれて聴こえないような
エアコンの「ゴー」という作動音と、壁掛けのクォーツ時計の
「コツ…コツ」という秒針が運針する音が妙に耳についた。
広いフロアの蛍光灯は多くが明るくつきっぱなしになってはいたが、
部署別に仕切られた仕切り壁の少し向こうの方は、明かりが落とされ暗くなっている。
感覚的には自分のところだけが照らされたスポットライトのようで、
絵に描いたような寂しい残業風景だ。
目の前の机の上には今日中に(といってももう1時間もないが)
仕上げておきたい書類の山が「ほら、まだまだこんなにありますぜ」と言いたげに、
文字通り山積みにされている。
しっかり書類ごとに整理しておかないと、
後でどれがどれだかわからなくなる
お決まりのパニックになることは想像に難くなかったが、
それさえも手放しかけているところから、
頭では思っていなくても、
「今日も終電に間に合わないんだから、もういいじゃん」と、
ヒロの本音は諦めモードになってしまっていることを体現していた。
「書類が主人でオレが奴隷だな」
ボソッとつぶやくとヒロはまた書類に手をかけ始めた。
だが3分とたたないうちにまた手を止めてしまう。
今日と明日の境界のない、
だらだらと続く時間の中でただ流されて生きているようで、
書類をやっつける気力も湧いてこないのだ。
何といってももう今日は家に帰ることが出来ないのだから。
ヒロはカップを手に取るとすっかり冷めたコーヒーをぐいと飲みほした。
カップを近づけたときにはブルマンのかすかないい香りはまだ残っていたのだが、
いざ口に流し込むと生ぬるい感触と何とも言えないへんな渋味が広がってしまった。
書類とペンから手を放し、椅子の背もたれにだらんともたれて、
椅子をキイキイ言わせながら左右に振ってみる。
ふと窓の外の林立するオフィス街の窓々に目をやってみる。
あちこちのビルの窓から明々と光が漏れている。
もうすぐ日が変わる時間だというのに、
あの光の中で何人もの人たちが仕事に追われているのだ。
「何人の人間が俺みたいにだらだら仕事をしているのかな?」
勿論、夜勤の人間もいるだろうし、
さっさと仕事を片付けて今から飲みに出かけようぜ! なんて
パワーに物を言わせている若い社員もいるかもしれない。
と同時にただなんとなく今は机に向かっている幽霊みたいなやつも
やっぱりいるんだろうなとヒロは思った。
窓の下に目をやると、さらにそんな気持ちに追い打ちをかけられる。
眼下の通りのショーウィンドウには、
間近に近づいたクリスマスの装飾をするスタッフたちが、
白塗りのマネキン人形にサンタの衣装を着せたり、
ウィンドウにホワイトのスノースプレーで
「Merry Xmass」と描いているのが見えた。
そうやってなんとなく外を眺めていた視線を目の高さに戻したヒロは、
目の前のガラスに自分の姿が映っているのに気が付いた。
朝に剃ったあごには無精ひげがうっすらとはえてきている。
「オレは来年もこんなことをしているんだろうか」
窓に映る自分の姿に、ヒロは思わずつぶやいていた。
ヒロの会社は企業向けの大手コンサルティング会社だ。
大手企業の社員教育や企業のトップの教育も行うし、
起業家向けのセミナーなども行っている。
バブル期のセミナーブームの波に乗って大きくなった会社だが、
名前も実績も優秀で、一流企業と呼ばれる会社も数多くがクライアントになっている。
大手企業の上層部の人が名前を聞いたら
「それは立派なお仕事をされていますね」と
ヒロに対する対応もその場でガラリと変わることも珍しくなかった。
ヒロもかつてはセミナーを受講した参加者の一人だ。
人と関わることが好きで、人が可能性を発見したり、
仕事に生きがいを見つけ、生き生きとしていく姿を見るのは、
ヒロにとって本当に感動的だった。
「人が生き生きと生きていくのを見ていける仕事がしたい!」
強い思いからヒロはこの会社に入社したのだ。
入社して5年の月日が経っていたが、
これまで生きがいを見つけて飛び込んだこの業界で、
ヒロは実に生き生きと仕事をしてきた。
ヒロのセクションは営業だったが、
様々な人と出会い、自分自身も磨かれていくようで、
実に充実した毎日を送ってきたのだ。
実のところ、さっきから腐ったような心持ちで過ごしてはいたが、
けしてヒロはこの仕事が気にいらなくなったわけではない。
人の成長に関われる仕事ができる喜びを今でも感じているし、
なによりも自分がこの仕事を選んだのだという確固とした自負があった。
それは仕事の愚痴をただの一度もこぼしたことがないことからも
間違いのないことだと思う。
仕事が片付かなくて、午前様になってしまったり、
今夜みたいに帰れなくなってしまうこともしばしばある。
それはそれで勿論嫌なのだが、ヒロを腐らせる要因は他にあるようだった。
言葉では言い表せないとても不明瞭な不安……。
声にならないのにたまに響いてくる何とも言えない不安感。
そんな実に不明瞭なよくわからない不安感を、
オフィスで一人過ごすこんな夜にヒロはちょくちょく感じるようになっていたのだ。
「自分は来年もこんな気持ちで過ごしているのだろうか」
「来年もこんなことをしているんだろうか」
ヒロは窓に映った自分の姿にもう一度つぶやいた。
突然「コンコン」というノックの音が静かなオフィスに響き、
それまでの静寂を破った。
と、同時に窓に映ったヒロの後ろのドアが「ガチャ」と開く。
深く椅子にもたれていたヒロはひっくり返りそうになりながらも、
慌てて姿勢を正してドアの方を振り返った。
入ってきたのはかつての上司のミヤモトだった。
「ミヤモトさん、ビックリするじゃないですか、
どうしたんですか?こんな時間に?」
「やあヒロ、がんばってるな!こ・ん・な時間に(笑)!」
そう言うとミヤモトは小脇に抱えた鞄と本を身近な机におろした。
ミヤモトはヒロの尊敬する上司の一人だったが、
独立すると言って、1年前にこのオフィスを去っていた。
ヒロは仕事に関するいろんなことを彼から学んでいたし、
仕事帰りに一杯飲み屋で熱い思いを語り合った仲でもあった。
ヒロはミヤモトのことを本当に慕っていたし、兄のように感じていた。
正直なところ、ヒロがこのところ感じている不安感の要因のひとつは、
熱い思いを語り合える兄のような存在がいないことによる
寂しさもあるのかもしれなかった。
ミヤモトは、いつもこのオフィスでみていたビシッとしたスーツ姿とは違い、
とてもカジュアルでラフないでたちだ。
白のハイネックのセーターと黒のスリムなパンツ姿に、
カシミアのベージュのコートを羽織っている。
ビシビシのスーツ姿で「いかにもできるビジネスマン」という感じの
ヒロの知っているミヤモトとはずいぶん印象が違う。
きっと今着ているものもいいものなのだろうけど、
嫌味に高価なブランド物という印象はなく、
ラフなんだけど清潔感があって、
こざっぱりとした、どこか粋な感じがする雰囲気を醸し出している。
なによりも印象的なのは、オフィスにいたころよりずっと若々しく見えるところだ。
「いやぁビルの下を通っていたらまだ明かりがついていたからさ、
ヒロがいたら飲みに誘ってやろうと思ってね。」
思わぬミヤモトからの誘いにヒロは嬉しくなって、
思わず顔がほころぶのを感じた。
「ミヤモトさん、嬉しいけどこの書類の山をみてくださいよ」
「せっかくのお誘いだけど、この状況を投げ出して
アルコールを入れちゃうほどの度胸は僕にはありません(笑)」
「そっかぁ、そりゃあ残念だなぁ」
「いや、最近よく行くバーがあってな、飲みに行くっていうより、
贅沢な時間を買いに行く感じの店でさ、めっちゃお気に入りなんだ」
「お前にもちょっと贅沢な時間を味あわせてやろうと思ったんだよ」
贅沢な時間という響きに、
ヒロはミヤモトと自分に流れている時間は違うのだと感じた。
ミヤモトはリラックスできる「自分の時間を楽しむ」余裕があるのだ。
「お誘いありがとうございます、今度ぜひ連れて行ってください」
ヒロは最近感じている「なんとも言えない不安」のことを、
ミヤモトに聞いてほしい気がした。
だが….自分と違う時間を楽しんでいるミヤモトにそのことを話すのは、
なんとなく自分が可哀そうな気がして、思わず言葉を飲み込んでいた。
「うん、今度はきっと行こう! 次は早めに連絡するようにするよ」
「その時はおごってくださいね」
ヒロは笑いながらそう応えたが、
もしかしたら顔ひきつっていなかったかな?
と後から少し不安になったりした。
「じゃ、またな」
「無理はほどほどにな(笑)」
そう言うとミヤモトは鞄を抱えて部屋を出ていった。
「バタン」というドアが閉まる音と同時に、
再びオフィスに静寂が戻ってきて、
何とも言えない寂しさが漂った。
そういえば、独立すると言って出て行ったミヤモトは今、
何の仕事をしているのだろう?
慕っていた割には元上司のことを何も知らない自分に気が付いて、
ヒロは思わず「自分のことしか考えてないよな」と呟いていた。
つぶやきながら再び窓の外に目をやる。
ヒロは向かいのビルの明かりを見つめながら、
さっきのミヤモトの言葉を思い出していた。
ミヤモトは贅沢な時間を買いに行くと言った。
彼は自分の人生を楽しんでいるのだ。
きっと人生も仕事も楽しんでいるのだろう。
「俺は自分の人生を誤魔化しているのかもな」
ふとそう呟いてから、ヒロは自分が発した言葉に驚いた。
「俺、今なんて言った?」
思わず窓に映った自分に聞き返す。
自分は生きがいを感じられる仕事をしてきたと思っていた。
でもここ最近、何とも言えない不安を感じていたのは、
実は生きがいを感じられる仕事をしていると思っていただけで、
生きがいを感じていたわけではないのかもしれない。
その考えが浮かんだ途端、それまでヒロが感じていた不安感が、
急に胸の中でぶわっと広がっていくのを感じた。
なんだこれ。
「俺は自分を偽っているのか?」
胸に広がった違和感はやがてやるせなさに変わっていく。
「でも一体、何を偽っているというんだ?」
「確かに午前様や泊りは嫌だけど、そんなことじゃあない」
「少なくともこの仕事は自分で選んだ、
自分が生きがいを感じられる仕事のはずだ」
ヒロは以前「自分がワクワクすることをしなさい」
というテーマで書かれた本を読んだことがあった。
その本に出合った時
「多くの人が自分のワクワクすることが何なのかすら知らない」
というフレーズを読んで、
「生きがいを知っている俺は幸せ者だよな」
と呟いたことがある。
でも呟いたその時、微かな、ホントに微かな「違和感」を
感じていたのを思い出した。
その時は本当に微かなその違和感を無視したのだ。
そう、今ならわかる。
あの時感じたのは、
自分がワクワクすることが解らないという人たちに対する、
あれは優越感だった。
ワクワクなどではなかったのだ。
「俺は自分が何にワクワクするのか知っているつもりで、
本当はわかっていないのかもしれない…..」
そう呟くとさっきの異様な違和感は鳴りを潜めた。
スッキリするようなしないようなヘンな気持ちだ。
でも少なくとも今まで無自覚に知らんぷりを決め込んでいた
「なにか」に気が付けたことで、
何とも言えない不安感はおとなしくなったようだった。
それは自分が認めたくなかったことを
認めたときに感じる不思議な安堵感のようでもあった。
なにげに窓の外を見つめていた視線をヒロは、
再び窓に映る自分の姿に焦点を映した。
ヒロの姿の後ろには乱雑に散らかった机が映っている。
ふと気が付くと、
机の上にブックカバーをかけた一冊の本が目についた。
「あ、これ、ミヤモトさんの忘れ物じゃ?」
そういいながら本を手に取ると、
ヒロは本の内表紙を何気に開いていた。
「コーチングを始めるあなたに」
本のタイトルはそう書かれていた。
「今度ミヤモトさんに返さなきゃ」
そう呟きながらヒロは自分の机の引き出しに本をしまった。
「さっ、とにかく仕事を片付けよう」
ようやく気を取り直したヒロは、書類の山に向かい始めた。
ミヤモトが忘れていった一冊の本。
ミヤモトが忘れなかったら、ヒロが手にすることがなかった一冊の本。
この一冊の本が、
この後のヒロの人生を大きく変えるきっかけになるとは、
この時のヒロには全く知る術もなかった。
それは潜在意識が仕組んだ
ミヤモトからヒロへの置き土産。ギフトだった。
コーチングを初めて知ったころのあなたについて思い出してみましょう。