「その人の求める答えはすべてその人の中にある」
このたった一行の言葉にヒロの眼は釘付けになっていた。
ヒロの内のなにか、こころのなにか、
ヒロの琴線の「なにか」に、この一行の言葉の「なにか」が触れた。
それはこの言葉の背後にある、表面からはみえない意図と
ヒロの内のなにかが触れたことによって始まった
小さな化学変化だった。
ヒロはページをめくる手を止められなかった。
言葉の一つ一つが心の深いところのなにかに触れ、
深いところのなにかが動き出すのを微かに感じた。
そのなにかが次のページをめくらせるようだった。
「おつかれさまでした」
後輩の退社の挨拶の声にハッと我に返る。
自分が時間を忘れ、この本に没頭していたことに気がついた。
窓の方を見ると外はいつの間にか、夕焼け空の紅い色と
藍色とがグラデーションになり、星がひとつ空に輝いていた。
あたりを見回すと、いつの間にか社員たちの多くは退けていた。
どうやら1時間近く本に没頭していたらしい。
ヒロは本を閉じ、鞄に詰め込むと自分も退社することにした。
ビルを出、空を見上げると明るい一番星がひとつ、
群青色の空に輝いていた。
それはなにかを暗示しているようだった。
電車に乗り、運よく空いていた席につくと、
ヒロは鞄から本を取り出し、再び読み始めた。
1ページ1ページを噛みしめるように読んだ。
ヒロを動かしていたのは、
無意識にあった渇きを癒す水に出会ったような気持ちと、好奇心だった。
ヒロの内に「それ」は徐々に徐々に育っていった。
それは何処かワクワクする気持ちだった。
これまでも仕事に情熱を感じ、
熱中していた時にもワクワクした気持ちは感じていた。
確かに感じていた。
だが今感じているワクワクした感じは、
今まで感じてきたものと似ているが、なにかが違っていた。
今まで感じてきたワクワクと似ているが、
どこかなにかが少し違うのだ。
なにかに突き動かされるように本を読みふけるヒロ。
目的の駅に到着したという車内アナウンスの声に、
ふいに我に返り、慌てて電車を飛び降りる。
ドアが閉まりはじめるギリギリのところで、
ヒロはホームになんとか降りることができた。
「やべ、すっかり夢中だった….」
ホームに降りたヒロは慌てた心を落ち着けようと、
一度深く深呼吸をした。
鼻からゆっくりと、大きく息を吸い、
ゆっくりと静かに鼻から息を吐く。
鼻腔に空気が流れ込む時、少し涼しい感覚を感じ、
ゆったりと息を吐くとき、少し暖かい空気の流れる感覚が
鼻腔を撫でるのを感じた。
呼吸が触れる優しい感覚に、こころがスッと静まっていくのを感じた。
一呼吸して心を落ち着けたヒロは、
乗り換えのホームに向かい歩き始めようとした。
そのときだった。
聞き覚えのある声に後ろから呼び止められた。
「おーい!ヒロ!」
振り返るとそこにはミヤモトの姿があった。
「あ、ミヤモトさん」
なんというよくできた偶然だろう。
本の主とこんなところで会うとは。
「今から帰るところかい?」
「はい」
「ヒロにしては早いじゃないか(笑)」
仕事熱心なヒロをからかってミヤモトは笑いながらそう言った。
ミヤモトは先日と同じベージュのカシミアのコートを羽織り、
キレイにアイロンがけされたシャツに、
同じくキレイにアイロンがけされたベージュのスラックスを履いていた。
こざっぱりとしてセンスの良さが伝わってきた。
そのいでたちはミヤモトの人柄を静かに語っているようだった。
言葉で説明などしなくても、
ミヤモトと出会った人は、その優しげな雰囲気というか、
懐の深さというか、器を感じて、尊敬を持った親近感を抱くだろう。
人はその人に相応しい人を惹きつけるものだ。
仕事ができ、運のいい人間というのは、
こういう気配りのできる人なのだろうなとヒロは思った。
運は意図的に創作するものなのだ。
「ヒロ、急いでいるのかい?」
「え?」
「早く帰って急ぎの用事とかあるのかい?」
ヒロは抱えた鞄をぐっと胸に引き寄せた。
鞄の中のあの本を感じた。
続きを読みたい….急ぎの用事があるとしたらそれだった。
が、ここでミヤモトに出会ったのは、ただの偶然ではないような気もした。
ヒロは答えた。
「いえ、今日は急ぎの用事は特にないです」
「そうか!珍しいな。それは好都合だ」
「好都合…ですか?」
ヒロは目を丸くしてみせた。
「ほら、こないだ話していたバーのこと覚えているかい?」
ヒロの脳裏にミヤモトがこの本を忘れていった日の
あの場面が蘇ってきた。
あのときミヤモトは、お気に入りのバーがあると言っていた。
そしてそのバーのことを評してこう言っていた。
「飲みに行くっていうより、贅沢な時間を買いに行くって感じの店でさ…」
贅沢な時間を買いに行く….。
とても印象的な言葉だったのでよく覚えていた。
「覚えてます、時間を買いに行くって言ってましたよね」
「素敵なお店なんでしょうね」
「今からどうだい?」
「え?」
「用事はないんだろう?」
「あ…ハイ!」
「じゃあ行こうぜ、奢ってあげるよ」
「あ!ありがとうございます」
ヒロは本の先が気になっていた。
だが本を自分のもとに運んできたミヤモトの話を聞きたいと思った。
好都合なのはヒロの方だった。
ここでミヤモトと出会えたのは偶然じゃないような気がした。
人生にはこのようなことがあるものだ。
そういえば経営者たちに仕事でインタビューしていた時にも
たまに偶然が意外な展開となった話を耳にしたことがあった。
「あのときたまたま出会った古い知人が、
たまたま相談してくれたことが、実は今のビジネスに繋がっていてね」
そんな話を何度か耳にしたことがあった。
たまたまの偶然に思えるけれど、
どこか偶然ではないような気がすること
もしかしたらこういうことに気づく感性も、
成功者には必要なひとつの資質なのかもしれない。
成功者は偶然に見える出来事もチャンスに変えるのだ。
「よし、じゃあ行こうか」
ミヤモトの声にうなずくと、2人は歩き始めた。
先ほどまで夕焼け空だった場所に、いつの間にか月が浮かんでいた。
信じていたものへの疑いからモチベーションを失っていた主人公のヒロ。
しかし、ある日、一行の言葉がヒロの「琴線」に触れたことで、心の奥深くにあった「なにか」が動き出します。
言葉は、あなたの心を暗闇にも光にも導く力があります。
あなたがこれまでに、暗闇の中でもがいていたときのことを思い出してください。
(ドン底まで落ちた体験でなくても大丈夫です)