ヒロがミヤモトに導かれて連れていかれたのは、
駅前の喧騒から少し離れた、水路の流れる閑静な街だった。
江戸、明治の頃は船で物資を運んだと言われるこの水路は、
今は静かな街の風情を味あわせてくれる風景のひとつとなっている。
水路の緩やかな川の流れを眺めながら歩いていると、
ミヤモトはちょっと狭い路地へと入っていった。
何軒かのバーらしき店の看板が目についた。
どれも落ち着いた雰囲気の店構えだ。
しばらく歩くとミヤモトはある店の前で歩みを止めた。
小さなネオン看板
会員制のように中が見えない木製の扉。
なんだか秘密の隠れ家みたいな目立たない入口だった。
「ここだよ」
そういうとミヤモトは磨き上げられた、
金色の真鍮のノブを引き、店の扉を開けた。
カランカランと客の来店を告げるドアのベルが鳴る。
店内は柔らかい間接照明が灯っていた。
ドアをくぐって左手には長いバーカウンターがあり、
右手にはいくつかのボックス席が並んでいた。
やわからく優しい間接照明がとても印象的だった。
店内にはサキスフォンのゆったりとしたジャズが流れ、
なんともいえない静かで落ち着いた、居心地のいい雰囲気を漂わせていた。
ヒロはこれまでも何度かバーに足を運んだことはあった。
だがこんな落ち着いた雰囲気の場所には今まで来たことはなかった。
オーセンティックな店の風情は、
高級ホテルのバーを思い起こさせもしたが、
ホテルのバーにありがちなカチっとした感じではなく、
どこか優しい居心地の良さをこの店は感じさせた。
「素敵な店ですね」
「だろ」
ヒロの言葉にミヤモトが得意げに応えた。
「ミヤモトさま、いらっしゃいませ」
声の主はこの店のマスターのようだった。
キレイにアイロンがけされた白いシャツに黒のベスト、
そして黒の蝶ネクタイといういでたちで、とても清潔感を感じさせた。
「こんばんは」
ミヤモトはそう言うと、ヒロをカウンターの席に招いて、
自分も隣の席に座った。
「彼、後輩でヒロって言うんです」
ミヤモトはマスターにヒロを紹介した。
「よろしくお願いします」
ヒロは名刺を取り出すとマスターに差し出した。
マスターは両手で受け取ると
「〇〇さま、頂戴いたします」と頭を下げた。
ヒロもつられて頭を下げていた。
「なんになさいますか」
マスターの言葉にミヤモトは少し考えてから
「一杯目はビールでいいかい?」とヒロに聞いてきた。
「はい、おまかせします」
ヒロは答えた。
「じゃあヴァィツェンをふたつ、ワンパインでお願いします」
「かしこまりました」
マスターはお辞儀をしてヒロたちの前を離れた。
ワンパイン….?どういう意味だろう?
このような場所であまり飲みなれていないヒロには、
こんな言葉も新鮮なものがあった。
ワンパインとは正確にはワンパイントと言い、
アメリカやイギリスで使用されるヤード・ポンド法における単位で、
350mlから500ml以内の量を指す言葉だ。
ヒロたちが座るカウンター席の向かい側には、
色とりどりの、数えきれないほどのボトルが、
暖色系の柔らかい照明の透過光に照らされ並んでいた。
琥珀色のウィスキーボトルが無数に並び、
赤や青、紫などの美しいリキュールのボトル、
スピリットのボトルが並んでいた。
なんて奇麗なんだろうと思いながら、
ヒロは並ぶ一本一本のボトルを眺めていた。
「それにしても今日はいいタイミングだったな」
熱いお絞りで手をぬぐいながらミヤモトが口を開いた。
「ああ、はい」
ヒロは答えながら「あ」と小さな声をあげた。
そして慌てて鞄を広げはじめた。
「なんだ?なにかくれるのかい(笑)?」
からかいながらミヤモトはヒロの鞄を覗き込む。
ヒロは鞄から例の本を取り出すとミヤモトの前に差し出した。
「あ、この本…」
ミヤモトが小さく声を上げる。
「先日、ミヤモトさん、この本をオフィスに忘れていったでしょう?」
「お返ししなくちゃと思っていたんです」
「そうか、ヒロのところに忘れていたのか」
「いや、何処に忘れたんだろう?って思ってたんだよ」
ミヤモトは本を受け取るとブックカバーの表面を
手の指の腹で優しくなでた。
本の存在感を手で感じ取るように。
本の続きが気になっていたヒロは、
少し名残惜しそうにミヤモトのそんな仕草を眺めていた。
「中身は見てみたのかい?」
「え?」
「この本だよ、中身は見てみたのかい」
「あ、ええ、少し拝見しました」
「どうだった?」
ミヤモトの意外な問いにヒロは、自分の目が少し見開くのを感じた。
「あの…すごく興味があります」
「買おうかなと思っていたんです、僕もこの本」
ヒロの言葉にミヤモトの顔がパッと明るくなった。
「そうか、気に入ったか」
「それはよかった」
ミヤモトは笑顔でそう言った。
嬉しそうだった。
「何処が気に入ったんだい?気に入った一節はあるかい?」
ミヤモトのこの問いにヒロは一度姿勢を整え、
少し真面目な顔になってからこう答えた。
「その人の求める答えは、すべてその人の中にある」
ヒロはこの一節をつぶやいた。
「それか」
「ええ」
ミヤモトはカウンターの向かいのボトルの方を眺めながら、
満足そうな笑顔を浮かべた。
「ヒロにあげるよ」
「え?」
「この本、気に入ったんだろう?ヒロにあげるよ」
「え!?いいんですか!?」
「ああ」
「あ!ありがとうございます!」
ヒロはすごく嬉しかった。
この本の続きをまたすぐ読めるのだ。
「オレさ….」
ミヤモトがなにかを話しかけたとき、
ちょうどマスターがビアグラスをふたつ運んできた。
大きめのふたつのグラスには生クリームのように
なめらかで美しい泡がグラスの上で表面張力を起こしていた。
そして白いクリームのような泡の下には、黄金色のビールが詰まっていた。
「お待たせしました、ヴァイツェンです」
「ありがとう」
ミヤモトはグラスを手に取ると、ヒロの目の前に差し出した。
「乾杯!」
二人はグラスを重ねた。
「乾杯!」
チン!というグラスが当たる小さな音がした。
グラスを唇に当てると、生クリームような柔らかい泡を破り、
なんともフルーティーなテイストのビールが流れ込み、
ヒロの乾いた喉を潤した。
「わぁ!ヴァイツェンってこんなにおいしいんだ!」
思わず子供のようにヒロは声を上げた。
「小麦のビールだ、美味いだろ」
「ええ、こんなにおいしいビールがあるんですね」
ヒロが喜ぶ顔にミヤモトは満足そうだった。
「あの、ミヤモトさん、さっきの話….」
「あ、ああ、そうだったな」
ミヤモトは手元に一度置いた本を再び手に取りながら、こう言った。
「オレさ、気に入った本があったら、
次にその本を求める人にプレゼントすることにしているんだ」
「そ…そうなんですか?」
「ああ、ヒロが気に入ってくれたのは嬉しいよ」
「オレがヒロのところにこの本を忘れて行ったのは
偶然じゃなかったってわけだ」
偶然じゃない……。
ミヤモトもヒロが考えていたことと同じことを言う。
ヒロは不思議に思った。
「あの…もしかしてミヤモトさんの今のお仕事って、
コーチをされているんですか?」
「そう、ご名答!」
「コーチング、興味あるかい?」
「あ、はい!すごく気になります」
「それは嬉しいなぁ」
「よし、じゃあ今日はコーチングについて語ろう」
「その前に、ちょっと先にお手洗いに行ってくるよ、待ってて」
そういうとミヤモトは席を立ちあがった。
「あ、はい」
歩いていくミヤモトの背中をヒロは目で追った。
店内にはスローでゆったりとしたジャズが流れていた。
なんとも落ち着く店だな。
贅沢な時間を買いに行く店…か。
ミヤモトの言っていた言葉の意味がヒロにもわかる気がした。
ヒロが店内を見回していると、
カウンターの少し離れた席にたたずむ一人の紳士にヒロの目は留まった。
黒のジャケットにパンツ姿、
よれひとつない美しい黒いジャケットの首元からは、
白いパリッとしたシャツの襟がのぞいていた。
キレイにセットされた白髪に、
キレイにカットされ揃えられた白髭。
その風貌、雰囲気にはなんともいえない気品が漂っていた。
話さなくてもわかる。
この人が普通の人でないことが。
ヒロの直感は言葉にならない言葉でそう囁いていた。
その紳士がいるだけで、その場が落ち着いた静寂になるような、
そんなクリアな空気を、気品をその紳士は漂わせていた。
こんな….人がいるんだ。
なんて素敵な人なんだろうとヒロは思った。
紳士はウィスキーグラスの中の琥珀色の液体を
グラスの中で揺らしながら、葉巻の煙を楽しんでいるようだった。
それがこのバーでの紳士とヒロの最初の出会いだった。
気に入った本があったら、次にその本を求める人にプレゼントすることにしているミヤモト。
昔、「ペイ・フォワード 可能の王国」という映画がありました。
自分が受けた善意や思いやりを、その相手に返すのではなく、別の3人に渡すというものです。
あなたもこれまでに、自分が体験してよかったお気に入りの何かを
大切な人にプレゼントしたことがあるかもしれません。