「本日もありがとうございました
ではまた来月よろしくお願いします」
「はい!ありがとうございました!」
そう言ってオンラインの回線を切ると、
ヒロは今日のセッション内容をカルテに入力した。
独立してコーチングをはじめて、ヒロは3年目を迎えていた。
3年….思えばいつの間にかそんなになっていたのか…。
「思えばよくやってきたな」
ヒロはひとりつぶやいた。
2年目を迎えたはじめの頃、あの時は本当に大変だった。
それまで順調に増えていたクライアントが次々と満期を迎え、
契約が終了していったあの頃。
新規の契約はほとんどなく、契約はどんどん終了していき、
それまで順調だった売り上げは半分以下に落ち込んだ。
あのときは本当に怖かったな。
本当に辛かったな。
あのときパートナーのМ美はヒロの不安な気持ちをただ黙って聴いてくれた。
安易に励ますことも、安易にアドバイスをすることもなく、
ただ黙って聴いてくれ、黙って一緒にいてくれた。
黙って本当に傾聴してくれた。
認めたくなかった自分の弱さを言葉に出し、認めたことで
ヒロはそれまで憑いていた憑き物ものが、ズルリと落ちたようだった。
あれからМ美と入籍した。
あれから焦らず、慌てず、ヒロは目の前のクライアントを大切にすることをはじめた。
勿論、それまでもクライアントを大切にしていたが、
それまで以上にクライアントに喜んでもらえることを意識するようになった。
そうしてひとつひとつ、焦らず、慌てず、ひとつひとつのことを丁寧にやっていった。
あれから1年以上が立って、気が付いたら毎日何人ものクライアントに
コーチングをする日々に変わっていた。
たまには休みを取らないと…とМ美に言われるようにもなっていた。
この1年余りで、本当にいつの間にか変わっていた。
今思えば初めの頃は若気の至りと言うのだろう。
ヘンにポジティブでギラギラしたところがあったなと思う。
そういう意味では前のめりなところは以前より鳴りを潜め、
楽に生きられるようになってきたなと思う。
まだまだこれから気が付くことはたくさんあるのだろうけど。
ヒロのビジネスはどれもご縁がご縁を呼ぶものだった。
きっかけのひとつは異業種交流会で知り合った友人が、
通っていた自己啓発の勉強会だった。
勉強会の講師の先生がコーチングに興味があるという話になり、
それならとヒロのことを紹介してくれた。
その先生が今度はお弟子さんを紹介してくれた。
先生のコーチングは数回行っただけだったが、
お弟子さんを紹介してくれたのだ。
このお弟子さんも講演など行う方で、とても話の面白い方だった。
この方の話は本当に面白かったので、講演会にはよく人が集まっていた。
そしてコーチングの話を講演でしてくださり、ヒロのことを紹介してくれた。
この方は大勢の前で話すのが好きだったので、
一対一のセッションには興味がなかった。
そこでヒロのことを紹介してくれた。
そうやってご縁がご縁を呼んで、徐々にクライアントは増えて行った。
人を大切にすること。
先輩のミヤモトからよく言われたことだったが、
そのことが本当によかったなとヒロは思う。
コーチングを続けていく中で、
あらためてヒロはコーチングのすばらしさを感じる体験をした。
その方は物販の代理店をやっている方だった。
素直で素敵な方だったが、少し自信がなさそうなところがあった。
ところがそんな自信がなさそうだったその方が、
自分で「これをやる」と決めて、そしてやるのを見た。
「できるかどうかわからないけど…やります」
そう宣言された。
ヒロがやることは励まし、応援することだけだった。
だがその方はやると決めてやられ、やがて自分で自分を励まし、
自分で自分を認めることが出来るようになっていった。
そして自分自身で「やればできるんだ」という感覚を増していかれた。
ヒロはそうやって人が変わっていくのを何人も目にした。
それはヒロにとっても感動の体験だったし、本当に嬉しかった。
そしてヒロのやりがい、生きがいになっていった。
またヒロはコーチング仲間と一緒にコーチの勉強会も始めた。
コーチとして成果を出したい人、
コーチを始めたい人たちが勉強会には集まり始めた。
そしてまたその人たちが徐々にではあるが、
ヒロのコーチングを受けるようになっていった。
いつのまにか何人かのコーチのコーチをするようになっていた。
そうやって目の前のことを丁寧に、真剣にやり続けて、
気が付いたときには毎日何人ものセッションをするのが日常になっていた。
多い日には1日10人セッションをすることもざらになってきていた。
「ヒロ、大丈夫?疲れてない?」
М美はたまにそのように声をかけてくるようになった。
「うん、大丈夫」
…といいつつ、だんだんヒロの体力のキャパを超えてきた。
睡眠時間は削られ、休憩時間もほとんどなく、食事もままならない。
そんな状況になってきていた。
そして…月にセッション時間が100時間を超えたとき、
流石にヒロも「これは無理しすぎだ」と思うようになってきた。
「これじゃあ身体がもたない」
思わずそう呟いていた。
自分で呟いて…自分の身体が、精神が悲鳴を上げつつあることにふと、
我に返るように気が付いた。
「ハァ、やっと終わった」
一日の終わりにそんなことを口にする日も増えてきた。
考えてみたら新婚なのにほとんど何処にも遊びにも行っていない。
М美にも申し訳ないが、自分もこれでは身が持たない。
そう真剣に思うようになりかけていた。
そんなある日のことだった。
その日は珍しく早くにセッションの全てが終了した。
こんな日は珍しい。
早く食事を済ませて早めに寝よう…と思うところなのだが、
ふとヒロはなにかに呼ばれるような予感がした。
なぜかそんな気がした。
すると…ふいにヒロの携帯が鳴った。
着信を見ると相手はミヤモトだった。
慌ててヒロは電話に出た。
「やぁヒロ、久しぶり、元気してるかい?」
「ミヤモト先輩、お久しぶりです」
「あのさ、ずいぶん久しぶりだからさ、
たまに例のバーにヒロを誘おうかなと思ってな」
バー…ミヤモト先輩に連れて行ってもらったあのバー…。
ちょっと疲れていたからだろうか…。
ヒロは既視感のようにあのバーのカウンターの光景の中に一瞬いた。
…….。
「…ロ?…ヒロ?」
「あ!ハイ!」
「どうしたんだい?」
「あ、すいません!ちゃんと聴いてます」
「どうだい?久しぶりにあのバーに行かないか?」
「あ…僕….」
「あ、そうか!新婚さんだもんな、ごめんごめん!」
「あ!いえ!行きます!行きたいです!」
「そう?それはよかった、じゃあ〇時に店で落ち合おう」
そういうとミヤモトは電話を切った。
「どうしたの?出かけるの?」
М美が声をかけてきた。
「うん、ミヤモト先輩とバーに行くんだ」
「あら、そう」
「あの..君も一緒にどうだい?」
ヒロはМ美にもあのバーの雰囲気を味あわせてやりたいとふと思った。
М美は顎に手を添えると宙を眺め、少し考えた。
「うーん、行ってみたいけど、今日はひとりで行っておいでよ」
「なんかその方がいいような気がする」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、今度一緒に行こう」
「うん!連れてって」
М美は笑顔で応えた。
ヒロは支度を終えると…時間はまだ早かったが、出かけることにした。
なんだろう?ちょっとワクワクする。
遊びに行くなんて久しぶりだ。
毎日セッションをこなすのに必死だったから、
飲みに行くこともすっかりなくなっていたことに今更ながら気が付いた。
電車に乗り、駅から店への道を歩いていく。
人通りの多い通りから路地裏の道へと入る。
喧騒から離れ、路地裏に入るとなんだかちょっと、
神秘的で不思議な世界に足を踏み入れる感じがした。
そんな感覚を楽しんでいる自分がいた。
角を曲がるとあの店のネオンが目に入ってきた。
重いドアを開ける。
カランカラン…とドアのベルが来客を告げる音を奏でる。
いらっしゃいませ。
カウンターの若いバーテンダーがヒロを迎えてくれた。
若い人を雇ったんだ…。
ヒロは心の中で呟いていた。
若いバーテンダーが手渡してくれた熱いおしぼりで手をぬぐっていると、
マスターがカウンターの奥の方からやってきてくれた。
「〇〇さま、いらっしゃいませ」
「あ、マスターこんばんは」
「ご無沙汰しています」
「お元気そうですね」
「はい、おかげさまで」
「なんになさいますか?」
「ジントニックをお願いします」
「かしこまりました」
マスターはそういうと先ほどの若いバーテンダーに
「ジントニックをお願いします」と伝えた。
「あの、新しい方を雇われたんですね」
「ああ、彼ですね」
「ここにきて3年になりますかね」
「あ、そうなんだ!はじめてお見かけました」
「しばらく他の店に修行に出していたんですよ」
「そうなんだ」
そうか、マスター、若い人を育てているのか…。
ヒロは心の中で呟いた。
ヒロの…心の琴線が…微かになにかに触れる。
心が…微かに何かを囁く…。
だが…ヒロは何処かでなにかを感じているような気がするで留まる。
店内には静かにジャズのピアノのBGMが流れていた。
既視感….。
また…疲れているのかな。
毎日、一日中だものな….。
夢の中にいるような…。
現実と夢のはざまにいるような…不思議な感覚…。
………。
ふと気が付くと少し離れたカウンターの席に
あの人物がいることに気が付いた。
あの人物…..そう、何度か見かけたことのあるあの紳士だ。
キレイにセットされた白髪。
キレイに手入れされた白髭。
パリッとキレイにアイロンがけされた白いシャツに、美しい黒のジャケット。
紳士はクリアで透明な空気を漂わせていた。
紳士がそこにいるだけで…なんというのだろう。
清らかな空気が漂ってくる。
こちらの背筋も自然とスッと伸びてくる。
ヒロが紳士に見とれていると…ふと紳士はヒロに気づき、
笑顔を見せると会釈をしてきた。
ヒロもあわてて会釈する。
「またお会いしましたね」
「あ、はい、こんばんは」
紳士はニコッと笑顔で応えた。
その笑顔には子供のような無邪気さが漂っていた。
落ち着き、穏やかさ、清潔感、威厳、
そして子供のような無邪気さ。
いくつもの顔が一人の人物の中にあるのが見えた気がした。
そう…自分の中にはいろんな自分がいる。
多くの人は自分の中でどの自分が主導権をとるか、
主導権争いをしているのかもしれない….とヒロは思った。
どれか一つの人格が正しくて…正解で…と思いこんでいて。
そしてくるくるといろんな自分が顔を出しながら、
そうしながら自分の人格は一つだと、人は思いこんでいるのかもしれない。
そんなことを思った。
だけど…この紳士の中のたくさんの紳士は…
それは威厳のある人だったり、物静かな人だったり、
落ち着きのある人だったり、子供っぽかったたりなんだけど、
それぞれがそれぞれを尊重し合い、譲り合っているような…そんな気がした。
「ようやく温かくなってきましたね」
紳士はヒロに話しかけてきた。
「あ、はい」
その紳士は気さくで人なつっこいキャラの感じがした。
なんだか思わず心を開いてしまいたくなる。
そんな空気感を感じさせた。
春….暖かい季節…。
新しいはじまり…..。
ヒロは温かく優しい太陽の陽が肌を温めてくれるのを感じた。
ヒロは…空想の中で春の陽の空の下にいた。
温かい太陽、心地いい風。
青い空….待ち望んだ季節。
新しいサイクルのはじまり…新しく生命が活動を始める季節。
サァっと風が吹き、青い空にタンポポの綿毛がフワっと無数に舞った。
風に乗り、青く広く、清々しい空を、無数の綿毛が飛んでいく。
飛んでいく無数のタンポポの綿毛…。
……………。
「やあ、ヒロ早いな!先に来てたのか」
ハッとしてヒロは我に返った。
気が付くと上着を脱ぎかけているミヤモトがいた。
「お待たせしました、ジントニックです」
バーテンダーがジントニックをヒロの前に置く。
タンポポの綿毛…飛んでいく無数のタンポポの綿毛。
綿毛は地面に降り立つと、種となり、育ち、
やがて無数のタンポポになる。
一面黄色の….絨毯のように広がるタンポポのお花畑。
そうか!そうか!
「ヒロ、どうしたんだい?」
ミヤモトが不思議そうな顔をしながらヒロを覗き込んでいる。
ヒロはミヤモトと目が合うと、思わずニコッと笑った。
「なんだ?ヘンなヤツだな(笑)」
ミヤモトはちょっと吹き出し気味に笑って見せる。
そう!僕はひとりで頑張らないといけないと思っていた。
僕がひとりで頑張ってコーチングをしたとしても、
コーチできる人の数は知れている。
だけど….10人のコーチがいれば、
10人のコーチを育てることが出来れば….
その10人が10人のクライアントを持ったとしたら、
100人の人にコーチングを届けることが出来る。
そう!そうだよ!
ヒロは嬉しくなってきた。
「先輩!乾杯しましょう!」
「おいおい待ってくれよ、オレまだ飲み物頼んでないよ(笑)」
二人は思わず笑い合った。
風に乗っていく無数のタンポポの綿毛。
風に乗り、地に根を張り、たくさんの花を咲かせる。
そしてまたそのタンポポから綿毛が生まれ….。
ヒロにはヴィジョンが見えていた。
たくさんの人の喜ぶ顔が見えていた。
ミヤモトのドリンクがやってくると、二人は乾杯した。
そしてその乾杯は、ヒロの心の中でヴィジョンへの祝杯でもあった。
ヒロはヴィジョンを見た。
多くの人の笑顔を見た。
ヒロはミヤモトにヴィジョンを語り始めた。
二人は大いに盛り上がり始めた。
少し離れたカウンターの席に。
紳士のいたあの席には、飲みかけのウィスキーグラスだけが残っていた。
第一部・完
ヒロがヴィジョンを見たのは、自分一人で頑張る限界を感じたときでした。
今の自分の力ではそこに到達するのは到底無理だ。でも、そんな世界を見てみたい……
ヴィジョン、つまり、あなたが本当に見たい世界とは、今のあなたを超えたところにあります。
もし、あなたが今、行き詰まりを感じていたとしたら、
「私が本当に見たい世界は、どんな世界だろう?」
「どんな世界を見ることができたら、私は心から嬉しいのだろう?」
そう自分自身に問いかけてみてください。
今の自分の力で到達できるかどうかは、関係ありません。
あなたが本当に見たい世界は、あなただけでなく、他の誰かもきっと見たい世界です。
あなたが、心から、心から望む世界は、どんな世界ですか?
少し時間を取って、思い出してみてください。